約束の夜 (2)



 門をくぐると、大庭の端にある井戸へ向かった。


 そこには、井戸に屋根をつくるように枝を伸ばす古い樫の木がある。その木陰を陣取って、高比古が姿を現すのを待とうと企んだのだが、近づいていくと、狭霧は目をしばたかせた。


 目指していた木陰に、先客がいたのだ。


 その人は、井戸から汲みあげた水で顔を洗っていたところで、静かな朝の庭に足音が響くと、その人も背後を振り返って驚いた。高比古だった。


「おはよう、早いな」


「高比古こそ。おはよう」


 会えるまで長居を覚悟していたのに。その相手と思ったよりずっと簡単に会えてしまうのは、拍子抜けだった。


 立派な枝葉の影が落ちるところまで近づいていくと、高比古の目はついと上を向く。彼が気にしたのは、狭霧の頭上だった。今朝も狭霧は髪を結いあげていたが、そこにあるのは、いつもどおりのそっけない結い紐だけだ。


「なんだ、昨日の赤いのはやめたのか」


 からかうようないい方だったので、狭霧は思わずいい返した。


「昨日は試しにつけていただけだったの。人からもらったから」


「ふうん」


 それから、高比古は樫の木の幹のほうへ寄って、地表に張り出した根を腰かけ代わりに、腰を下ろした。


「それで、あんたが話したいことって? また薬師のことか」


 狭霧は、目を丸くした。


「いま、大丈夫なの?」


「いいよ。昼まで、とくに急ぎの用はない」


「そうなの? 急いで来ておいてよかった!」


「急いで来たのか? あんたも物好きだな」


 高比古はからかったが、目は笑っている。咎めるふうではなかった。


 それで、狭霧も落ちつける場所を探す。高比古が腰を据えたのとはべつの手頃な根を見つけると、そこに腰を下ろした。


「実は、意宇おうの学び舎でね……」


 そして、できたばかりの学び舎ではじめての講義を済ませたことや、思った以上に館衆や豪族の関心が高いことなどを、ひととおり伝えた。そして、一番話したかったことも。


「実は、杵築きつきのことも話したくて……」


「杵築? 杵築のなんだ?」


「杵築の薬師のことよ。薬師には、杵築で暮らしている人もいるでしょう? だから、杵築にも学び舎をつくれないかなあって」


「薬師の学び舎? 杵築に?」


「うん。でも、杵築が司るのは戦よ。だから、そこにまず学び舎をつくるなら、薬師じゃなくて、兵法や武具に関わることを学ぶ場所になるほうがいいのかなあって。でも、わたしは薬も……」


 狭霧が熱心にいうのを遮って、高比古は首を傾げた。


「兵法や武具について学ぶ学び舎? ……ふうん。必要あるのか?」


「必要ないと、思う?」


「さあ。要ると思ったことがない。学び舎がなくても、武芸の稽古をするなら弓を引く場所も、豪剣を交わす広場もあるし、なんだかんだと上から下に技は伝わっているから」


「そっか、じゃあ――」


 狭霧が本当に杵築につくりたいのは戦に関わるものではなくて、薬師を増やすための学び舎だ。なら、薬師を増やすための学び舎をつくってもいいかな――。そういおうと息を吸ったとき、高比古は機嫌悪く拒んだ。


「意宇で、学び舎づくりがうまくいったのは認めるよ。だがな、杵築でも同じものをつくるだと? 一つがうまくいったからって、次から次へと進めるのは安易すぎないか」


「そ、そう? 安易……だと、思う?」


「ああ、安易だよ」


 いい切った高比古は、その話は済んだとばかりに次の話をもちかけた。


「ところで、おれもあんたに訊きたいことがあるんだ」


 でも、狭霧はまだ学び舎の話を終えたつもりはなかった。なぜ杵築にもつくりたいと思ったのか、理由をまだ話していなかったし、いい足りないこともあった。


 でも、高比古から相談をもちかけられると、次は聞き役に回る。


 高比古は癖のように片膝を抱えていて、日蔭のひんやりとした地面をぼんやり見ていた。


「意宇で、須佐乃男の姿を見かけるか」


「おじいさま?」


 それだけで、なんとなく彼の意図はわかった。


「高比古が訊きたいのって、長老会のこと?」


 先を読んで尋ねると、高比古は顔をあげてこくりとうなずく。彼が気にかけているのは、意宇で生まれた新しい集まりのことだ。


「おじいさまなら、十日前まで意宇にいたよ。いまは須佐へ戻ったみたいだけど、またすぐにいらっしゃるって。ちらっと聞いたんだけど、長老会に関わる人たちが集まるのは、三十日おきらしいよ」


「三十日おき、ふうん……。なら、そこでなにが話されているか知ってるか」


「……噂だけど。新しい掟をつくってるっていう話よ。力の掟だけじゃ、きっとこれからうまくいかなくなるから、もっと細かな掟をつくるんだって」


「……ふうん」


 高比古は渋面をしていたが、話が進むにつれて表情はどんどん険しくなる。ついには、思いつめたふうにつぶやいた。


「なあ、狭霧。あんたはどう思う? 力の掟は、力を失いかけていないか。いまでも本当に守られていると思うか? 守っていくべきものだと思うか?」


 狭霧は、目を丸くした。そんなことを尋ねられるとは、夢にも思わなかった。


「それは、守っていくべきだよ。たしかに力の掟が働かないこともあるけれど、この掟があるから、出雲ではどんな人でも夢をもてるんじゃない」


「夢? 夢といえば聞こえはいいが、それは、規律をうやむやにする厄介なものだろう。はっきりいうよ、いまや、力の掟は矛盾だらけだ。おれは須佐乃男ほど問題を理解していないが、どうにかしないと、いまに混乱を生むだろう厄介なものだと、つくづく――」


 高比古が力の掟をそんなふうに話す日が来ると、狭霧は考えたことがなかった。


 彼は、誰より力の掟を信じていた。その恩恵を一番受けているのも彼で、いっさいのものをもたない状態から最上の手前まで成り上がった彼の姿は、大勢の人々の希望になっているはずだ。


 高比古という人は、自分とは正反対だ。極上の血筋はあるけれど、力が伴わないただの娘の自分とは――。そんなふうに思って、力だけを頼りにいまの位を掴み取った彼には、敬意すら抱いてきた。


「で、でも……力の掟のおかげで、高比古はいまの位を得ているわけでしょう?」


「そうだよ。でも、それも混乱を生むとは思わないか? 結局はあんたみたいに、掟が通用しない奴が出てくるわけだし、例えばだが、あんたとか盛耶もれやとか、いい血筋に生まれた奴をはじめから仮の世継ぎということにして、小さいときから育てれば、長い時間をかければそれっぽく育つよ。すくなくとも、ぎりぎりになっての混乱はない。いや、おれはこんなことをいいたいわけじゃなくて――」


 高比古は苦しげに首を横に振った。彼はいつも冷静で、なにかを口に出すときはすでに覚悟を決めた後という雰囲気があった。でも、彼はいま、迷っていた。


「力だけを頼りに後継者を決めたら、おれみたいに、異国の出の奴が選ばれることだってありうる。本当に一生出雲に身を置くかどうかもわからないような奴にそこまで目をかけること自体が、おれには大博打に思えるし、才覚を見てから育てるっていうのも、手間がかかる気がしてならない。それに――」


 高比古がいうのを遮って、狭霧は身を乗り出した。


「異国の出だっていいじゃない。出雲を背負っていこうっていう気持ちがあれば、そんなの……」


「だから、それが問題で――」


 高比古は苦虫を噛み潰したような顔をした。でも、狭霧はどうしてもいい返したかった。


「力の掟があるおかげで、出雲では、どんな人でもがんばろうって思えるの。どうにかしたいっていう人の想いは、血のさだめよりよっぽど人を強くすると、わたしは……!」


 狭霧は力の掟が好きだったし、それが出雲の誇りだと信じていた。


 でも、高比古は認めようとしなかった。


「だから。あんたがいうのは、この掟のいい面なんだよ。どっちつかずのうやむやなものほど、いい面も悪い面ももっているものだ。……あんたはきれいなところしか見ない。もうすこしよく考えろよ」


 ついには説教じみた文句までいわれるので、狭霧はかっと頭に血をのぼせてしまった。


「考えてるわよ……!」


 それからというもの、しだいに二人のやり取りは熱を帯びていく。


 話は力の掟を離れて、再び薬師の学び舎のことに戻ったが、そのときにはすでに、二人の声は激しい怒鳴り合いをするように変わっていた。


 腕組みをしてぶつぶつという高比古はけっして折れようとせず、苛立っていった。


「だいたい、なんだよ。杵築に薬師の学び舎をつくるだと? 意味がないし、無駄が多すぎる。……ああ、あんたの癖がわかったぞ。あんたは、いいと思えば人も物も際限なく使ってそれをやろうとするんだ。そういうのはな、下の苦労を知らない上の奴の考え方だよ。あんたが贅沢に暮らしてきたせいだ」


 嫌味までいわれて、黙ってはいられない。狭霧は喧嘩腰で怒鳴り返した。


「贅沢だの上の奴だの、仕方ないじゃない、わたしはそうやって生きてきたんだから! 道楽の続きで悪かったわね! でも、どういわれたって、そういう人じゃないと考えつかないことだってあるわよ。他人のいいところを認められないなんて、高比古ってやっぱり心が狭いわよ」


「心が狭い? 悪かったな。それに、道楽の続きだなんて誰がそんなことをいったよ。あんたはすぐに卑屈に考えるんだ。その癖もどうにかしろよ」


「癖、癖って……! わかったようにいわないで!」


 結局、口喧嘩をするように、そのまま時が過ぎ。


 白熱したいい合いを続ける二人のもとに、高比古を探す兵がやって来た。


「あのー、高比古様。昼になったら集まれといわれていたので、みんな集まっているんですが。そのう、もうすこし待ったほうがよろしいで……?」


「はあっ?」


「す、すみません! 待ちますから。待つようにみんなにいっておきます!」


 それで、狭霧ははっと我に返って、自分たちが腰かける木の根にかかる影が、ずいぶん短くなっているのに気づいた。


 そこで問答をはじめたのは早朝だったが、いま、太陽は真上まであがっている。いつのまにか、時間が経っていたらしい。


「いってきたら? 昼から用事があるって、はじめにいっていたじゃない。これだけ話を聞いてもらえたら、もうじゅうぶんよ。わたしなら……」


 喧嘩じみたやり取りを続けていたせいか、いい方は喧嘩別れをするように刺々しかった。高比古は、喧嘩を買うように狭霧を睨んだ。


「はあ? 話はまだ終わってない。用が済んだら戻ってくるから、ここで待ってろ」


「え――?」


 まだ、いいの? 


 高比古は、たくさんの役目を抱えた忙しい人だ。それなのに。


 狭霧はきょとんとして高比古を見上げたが、それは一瞬だ。高比古のいい方は、まだ喧嘩の最中だとばかりに、声で平手を打つようだった。


「絶対に待ってろよ? まだあんたに訊いてないことだって、山のようにあるんだ」


 高比古は怒っていた。それで、狭霧もついふんとすねた。


「わたしだって、まだいいたいことがたくさんあるわよ。高比古がいないうちに頭を冷やしておくから」


 高比古は渋々立ち上がると、迎えに来た兵とともに足早に大庭を横切って、武器庫の奥へと姿を消す。


 その先には、兵の集まり場に使われる奥庭がある。彼を呼びに来た兵の言葉からすると、そこには大勢の仲間が集まっていて、高比古の指示を待っているのだろう。


 高比古が狭霧のそばを離れたのは、それほど長いあいだではなかった。


 そう時もおかずに、高比古の姿は再び大庭に現れる。そして、狭霧のそばから去っていったときと同じように早足で大庭を横切って、樫の木陰まで戻って来た。


「は、早いね」


「手っ取り早く済ませてきた。時間をかけても仕方のないことだ」


 高比古は、さっきと同じ場所にどっかりと腰を下ろす。それから、すぐに話を続けた。


「なんの話をしていたか忘れたから、次の話をするぞ。あんたは、大和をいったいどう考えてるんだ? 伊邪那いさなの地に興ったとはいえ、あの国は伊邪那とはまったく別物だ。伊邪那より、よっぽど……」


 高比古の目は、これを機に徹底的に問い詰めてやるといわんばかりに好戦的だった。


 でも、狭霧は納得することができない。


「どうして飛ばしてしまうのよ。わたしは、高比古がいないあいだにさっきの話の続きを考えていたの。杵築に、薬師の学び舎とまではいかなくても、意宇とは別の本拠地をつくるべきだと思うのよ。だって、薬師を増やす理由の一つは、薬の知恵を里に広めることなの。たとえ学び舎じゃなくたって、杵築にしっかりした薬師の集まりがなかったら、杵築の薬師はいないも同然になってしまう。里へも広まらないわ」


 話が戻ると、高比古はちっと舌打ちをする。でも、答えた。


「いいたいことはわかるよ。おれは、杵築に薬を広めるなといってるわけじゃない」


「じゃあ、どうして反対するのよ。さっきは、意味がなくて無駄が多すぎるとまでいったくせに……!」


「おれがいいたいのは、いまはまだ早いってことだ。薬師の本拠地の意宇につくったやつですら、初めてふた月たらずだっていうのに、どうして杵築でまで――。意宇の学び舎がもっと育ってからでも、じゅうぶんだろう?」


 高比古はぎらりと目を光らせて、脅すように狭霧を睨んだ。


「おれのほうが答えを訊きたいよ。どうしてあんたは、一度に全部やろうとするんだ? いっておくが、時間が足りないと慌てているのはあんただけだぞ。自分に時間がないからといって、杵築も意宇も巻き込んで急がせる気かよ?」


 嫌味だった。高比古は狭霧の胸の内を見通したうえで、それを責めた。


 大和へいかなければと焦っているのは、あんた一人だ――と。


 たしかに、それを覚悟しているのは狭霧だけだ。狭霧を大和へ遣わせる使者にするという話が、すでにあちこちで出ているのは事実。でも、狭霧ほど心を決めた人はほかにいない。いや、それがとても決めにくいことだと、狭霧はよく理解していた。須佐乃男と大国主に縁のある娘を和睦の使者として差し出すことは、相手を同等と認めて、気に食わないあれこれを譲歩することにつながるのだから。


 でも、それで戦は避けられる。それに、いがみ合うより、結びつき合うほうがきっといいことを生む。だから、そのときが来れば、狭霧は自分から使者になりたいと名乗り出ようと決めていた。


 それなのに、高比古は、その覚悟すら馬鹿にするようないい方をした。


 狭霧は、渾身の力で抗った。いい出しにくいから誰も口にしないだけで、誰もが考えているはずのことだ。咎められるようなことではないと信じた。


「それは……! そうだけど……でも」


 そして、再び喧嘩じみた問答が始まる。


 疲れればそばの井戸から汲み上げた水で喉を潤し、何度も姿勢を変え、ついには木の幹にもたれたり、根の上に横になったりしつつ、狭霧と高比古はいい合いを続けた。


 薬師のことに、大和のこと。それから、長老会の意義についてと、力の掟の意味。それから、水路のことに、ひいては武具の造り方や運び方、軍の稽古についてまで。


 互いの胸にあったものをすべて吐き出し、もうなにも出ない、と疲れを感じ始めた頃。天頂にあった太陽が傾き、陽射しは弱まり始めていた。


「なんだか、疲れたね」


「ああ、ものすごく疲れた。もういい。続きは今度にしよう」


 高比古は放り出すようにいったが、すぐに顔をあげた。


「そういえば、あんたは、明日にはもう杵築にいないのか」


 そのとき狭霧は、高比古のそばで木の幹に背をもたれ、根の上に両足を投げ出していた。


「うん……そうだね」


「そうか。残念だな。まだいい足りなかったんだが」


「まだあるの? いつも、それくらいお喋りだといいのにね」


 早朝からいままで散々嫌味をいわれたせいか、狭霧はついいい返した。


 間髪いれずに冷笑すると、高比古もやはり皮肉で返した。


「おれがよく喋るのは、あんたがそれだけ頼りないからだろう? あんたがいうことがもっとましだったら、こんなに腹が立たなかっただろうに」


 思わず、ぐっと詰まった。高比古がいうのは、事実に間違いないのだから。


「……本当に、高比古って――。そうやって相手のことを見下して、なんでもかんでもずけずけと口にするから、知らないうちに敵をつくったりするのよ」


「なんだと?」


 ぎろりと睨みをきかせた高比古を、狭霧は真っ向から睨み返した。


「なによ」


 二人のあいだに険悪な雰囲気が漂いはじめて、みたび、喧嘩じみたやり取りが始まってしまいそうになった、その時。


 そこに、水を差す気配が近づいてくる。声を震わせて人を探す女の声だった。


「高比古様はどこです、高比古様は……」


 杵築の兵舎に仕える馬飼うまかいの男に先駆をさせて、高比古の名を呼びながらやって来るのは、恰幅かっぷくのいい女人。


文凪あやなぎさん……」


 その人は、心依姫ここよりひめのもと乳母。宗像むなかたから海を渡って、一緒に出雲へやってきた侍女だ。


「文凪?」


 高比古も背を起こして、訝しげに目を細めた。


 文凪が心依姫と暮らしている離宮は、雲宮からすこし離れた野にある。


 そんな場所から、わざわざ彼女が、雲宮まで高比古を探しにやってくるとは――。


 ぱっと立ちあがると、狭霧は忙しなく問いかけた。


「どうしたんです、文凪さん。心依姫になにかありましたか」


 でも、文凪はにこりと笑うことも、会釈をすることもしなかった。


 気味悪いものを見るように狭霧を一瞥すると、文凪はまっすぐに高比古のもとへ向かい、足もとにひざまずいた。


「高比古様。お許しもなく雲宮を訪れてしまい、申し訳ございません」


「いいよ。なにかあったのか」


 促されると、文凪はそろそろと顔をあげていく。


 それから、高比古の背後にいる狭霧をちらちらと見やっては、苦しげなため息を吐いた。


「実は、姫様の様子がおかしいんです。具合が悪くて、ずっと床に伏せっておられます。実は、もう五日目になります」


「ええっ?」


 悲鳴じみた声をもらしたのは、狭霧だった。


「いってあげて、高比古。文凪さんがここまであなたを探しにくるくらいよ。きっと――」


 狭霧が慌てれば慌てるほど、どういうわけか、高比古の真顔は冷えていく。


 高比古は、自分の背後で青ざめる狭霧をぼんやりと見上げた。


「あんたの用は済んだのか? 明日には意宇に帰るんだろう?」


 狭霧の用というのは、話だ。


 彼に相談したいことがあって、朝から一緒にいたが、なぜか口喧嘩のようになってしまって、いいたいことは口にできたものの、ほとんど解決していなかった。


 とはいえ、なぜ高比古がそんなことを気にするかがわからなかった。


「朝からずっと付き合ってもらったんだもの。じゅうぶんよ。高比古がいなかったら一人で考えるしかないし、どうにかするわ。そんなことより、心依姫を……」


「ああ――」


 高比古の表情は暗かった。


 彼は立ち上がるが、身のこなしは蝸牛の歩みのようにゆっくりで、わざと時を稼いでいるように見えた。


「どうしてそんなにのんびりしてるのよ。急がなくちゃ……」


 咎めたが、高比古は表情を変えない。彼は、足もとでひざまずく文凪より、狭霧を気にした。


「明日は、朝早く発つのか」


「え?」


「早く戻ってきたら、また続きをしよう。まだ話が残ってる」


「え……いいよ。心依姫がたいへんなんでしょう? わたしより、心依姫のことを考えてあげなくちゃ。わたしなら一人で……」


 狭霧は、目を白黒させた。なぜ高比古が、こんなときにわざわざ別の用事をつくろうとしているのか、さっぱりわからなかった。そのうえ――。


「おれは、あんたの都合のいい道具か?」


 突然そんなことをいわれるので、目をしばたかせた。


「え?」


「なんでもない。いくよ」


 高比古は寂しげに笑った。それから、彼にしては珍しく、素直に感謝を告げた。


「今日はおれも助かった。しばらくもやもやしたものが胸にあったんだが、おかげですこし形になった。あんたと話せてよかったよ。じゃあ、明日。もし会えたら」


 交わしたのは、やはり手ごたえのない約束だった。


 別れの挨拶を済ませると、高比古は馬屋の方角へ向かって狭霧に背を向け、歩き始めた。


「馬を用意しろ。鞍をつけてくれ」


 そばにいた下男へ命じると、男は高比古より早くと先立って大庭を駆けていく。


 遠ざかっていく高比古の後姿を、狭霧はぼんやりと見送った。


 彼の背中は、さっきまでいい合いをしていた相手とは思えないほど弱々しかった。なにかに脅えているような、前に進むのを躊躇ためらっているような――。


(高比古、どうしたの)


 彼のそんな姿を、狭霧はあまり見たことがなかった。


 彼はいつも、行動するときにはすでに心を決めている人だと思っていた。覚悟を決めるのも、行動に移すのもとても早くて、羨ましい、尊敬すると、そんなふうにも――。





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