約束の夜 (3)


 日が傾き、雲宮には黄昏時が訪れていた。


 庭いっぱいに溢れた琥珀色の光は、陸の上に広がった光の海のように、あらゆるものを淡い茜色で覆ってしまう。


 やがて、その光は高比古の後姿も塗りつぶしてしまった。目を細めても、目の上に手のひらで笠をつくっても、狭霧の居る場所から、高比古の姿は見えなくなった。


 すると、そばにいた文凪あやなぎは、ほうと息を吐いた。


「ああ、よかった。これで、心依姫様も――」


 探しに来た相手が願いを聞きいれて、離宮へ向かう支度をはじめたのを見届けると、文凪は目元に涙をにじませて喜んだ。


 ようやく落ち着いたのか、文凪は、そこで立ちつくす狭霧を向くと、無礼を詫びるように深々と頭を垂れた。


「お騒がせして、申し訳ありませんでした。動揺してしまい――」


「いいえ、いいんですよ」


 慌てて手を振ると、狭霧は文凪の顔を覗きこんで、彼女の主の身を案じた。


「それより、心依姫の具合は悪いんですか。急な病でしょうか。それとも、お風邪でも――」


「……私には、わかりません。きっと高比古様が診てくださるのでは――」


「それは、そうですね。高比古は策士だけど、医師の知恵をもつ薬師でもありますからね」


 高比古なら、たぶん――。


 そう思うと不安は和らいだが、文凪と目を合わせていると、なぜか奇妙な気分になって胸が騒いだ。


 文凪は笑っていたが、その目に、なぜか睨まれているように感じた。


「狭霧様も、どうかそのうち、心依様のもとを訪れてさしあげてくださいね。きっと喜ばれるでしょうから」


「はい、それはもちろん」


 二つ返事で答えたが。そのときも文凪は、厄介なものを牽制するように、狭霧のことをじっと見つめていた。








 文凪は一人で馬に乗れないので、馬番に馬をひかせて、ゆっくり来るようにと伝えた。だから、離宮への道を駆けているのは高比古の乗る一騎だけだった。


 馬を駆り、離宮へ向かうあいだ、高比古は憂鬱だった。


 心依姫が五日も前から伏せっていたのなら、おそらく原因は自分だと気づいたからだ。


 高比古が出雲に戻ってから、二十日近くが経っている。でも、妻のもとへは、まだ帰郷の知らせをしにいっていなかった。毎日忙しく、たしかにそれどころではなかったが、多忙に甘えてほっとしてもいた。


 離宮はすこし離れた野にあるとはいえ、馬を走らせれば、そう遠くない場所にある。そして、ほどなく離宮のある里や、林の木々が見えてくる。


 そこへ近づいていくたびに進むのが億劫になり、高比古はため息を吐いた。


 何度目かのため息を夕風にこぼした頃、里へ続く道をいく一行を見つけた。


 黒毛の立派な馬を囲んで歩く下男の列で、彼らが連れている黒毛の馬は、遠くから見ても肢体の見事さに惚れ惚れするような駿馬。いや、高比古はその馬に見覚えがあった。


 下男の一行は、後ろから駆けてくる高比古に気づくと足を止めて、道の端に寄って頭を下げる。でも、高比古に黙って彼らのそばを通り過ぎる気はなかった。


「そいつは、黒雷じゃないか。雲宮から連れ出して、どこへいく」


 その美しい黒毛の馬は、脚の強靭さで有名な若駒だった。


 問いかけられた下男は、明るい笑みを浮かべて答えた。


「はい。そこの里です。年頃の雌馬がいるっていうんで、逢瀬に誘われたんです」


「逢瀬?」


「ええ。黒雷は丈夫な雄馬で、あちこちの馬屋から、ぜひ夫にっていう話がしょっちゅう来るんですよ。こいつと結ばれた雌馬が、父親似の見事な子馬を授かるようにって」


 そう答えた下男は、仲間たちと冗談をいいあった。


「いいですよねえ、羨ましいですよ。そこらじゅうの里に奥方がいるなんて、方々からお妃を集めた大国主や須佐乃男様みたいです」


「ええ、大したものです。この黒雷がもし人なら、武王か賢王かってところですよ」


(なんだ、種馬にするのか)


 雲宮の宝ともいえる軍馬を王宮の外へ連れ出していたのは、与えられた役目をこなしていただけだった。


「引きとめて悪かった」


 納得すると、高比古は再び手綱を操り、一行のそばを通り抜けた。






 離宮の門を守っていた番兵は、高比古が乗る馬を見つけるなり、歓喜の声をあげて門の内側へ呼びかけた。


「高比古様です、高比古様がいらっしゃいました!」


 門の近くに出ていた侍女たちも、目元に涙をにじませて高比古の到着を喜んだ。


「よかった、高比古様だ……」


「これで心依姫様も――」


 おそらく、文凪が伝えた心依姫の騒ぎは、離宮中の知るところなのだろう。


 離宮にいる連中がこぞって心依姫を想って騒ぎ始めると、高比古はうっかり敵陣へ飛び込んだ気分になった。


(やりにくいな――)


 とはいえ、もうどうしようもない。庭の中央でひらりと鞍から下り、すぐさまとばかりに駆け寄って来た下男へ手綱を預けていると、奥に建つ舘から飛び出てくる小さな人影があった。心依姫だった。


「兄様。兄様。兄様……!」


 ふた月ぶりに見た心依姫は、前より細くなった気がした。


 文凪は、心依姫が五日前から伏せっているといったが、病で倒れたわけではないとは、直感で気づいた。それなら、もっと大ごとになっているはずだからだ。


 思ったとおりで、すこし痩せはしたが、心依姫は病におかされているというふうではなかった。伏せった理由は、きっと気苦労だ。遠方に出かけていた夫が、とっくに帰って来ているくせに、会いに来ないから。


 近づいていって、駆け寄ってくる幼い姫の身体を腕に抱きとめると、心依姫は高比古にしがみついて泣きじゃくった。


「待っていたのです。いつ訪れてくださるかと……。それで、心依は……」


「……悪かった。しばらく忙しくて。文凪に聞いたが、身体は――」


「しばらく眠れなくて――。でも、もう治りました。兄様がいらしてくださったから」


 涙で濡れた頬を高比古の胸に添わせて、心依姫は健気に笑った。そしていつか、高比古の背中に回った細腕には、緊張したふうな力がこもった。


「その、お役目は、忙しいのですか」


「ああ、やらなくちゃならないことが多くて」


「雲宮とここはそれほど離れていないのですから、夜だけでもこちらでお休みになってくださればいいのに」


 心依姫が口にしたのは、せめてもの恨み文句だった。


 どうして会いに来ないのだと、幼い姫は慎ましく責めていた。


「……夜は夜で、考えごとをしたくて」


 短く答えると、背中に回った細腕にはいっそう力がこもって、そのうえ固く強張った。


「雲宮では、お一人で寝ていらっしゃるんですか」


「どういう意味だ」


「……兄様を待っていると、いやなことを考えてしまうんです」


 いっている意味はわかった。いもしない女を相手に、嫉妬しているのだ。


「心配しなくても、おれにそんな器用な真似はできないよ」


 苦笑していうと、高比古の胸元で心依姫はほうっと笑った。背中に回った細腕からも、いくらか力が抜けていった。


「すみません、妙なことを考えてしまって――」


 しばらく高比古の胸に顔をうずめてから、心依姫は改まったように細い声を出した。


「あの、長門へ発つときにしたお約束を、覚えていらっしゃいますか」


「……ああ」


 答えると、高比古にしがみつくようにしてもたれかかる心依姫の頬には涙の筋がはらはらと落ちて、華奢な肩や背中は、小刻みに震え始めた。


「兄様に、はしたないと嫌われてしまうのを覚悟していいます。どうか、心依を安心させてください。心依は兄様のものだと、どうか」


 心依姫の顔を見たときから、いや、雲宮に文凪が現れたときから、こういう話になるだろうとは思っていた。だから、ここへ来るまでの道中に、高比古は「いいよ、わかった」という心の準備を終えていた。


 夫婦なのだから、娘のほうからわざわざ頼まれるほうがおかしいのであって、心依姫がいうのはふつうのことだ。それに、この姫の様子を見ていると、底の知れない覚悟をしてのことだろうとも勘づいた。


(心依は、たぶん、諦めてるんだ。こいつはおれの興味がないことをわかってて、そのうえで、夫婦の印だけでいいから欲しいと――)


 そんなことを想うと、胸が針で突かれたように痛む。


(ごめん、こんな奴が相手で――)


 自分にしがみついてくる小さな身体を抱き返すと、心依姫は幸せそうに身を寄せてくる。


 心を決めたとはいえ、まだ胸では二つの異なる想いがせめぎ合っていた。


 まつりごとのための祝言とはいえ、夫婦なのだから、妻となった娘を安堵させるのはたぶん当然のことだ。でも、それに反する想いもあった。


 抱けば、どうにかなるのかな。


 そんなことでは、根本的な問題は解決しないと思うんだが。


 実のところ半信半疑で、今となっては、それでこの姫の気がおさまるならとしか結論を導くものがなかった。それに――。


「兄様……」


 胸元でつぶやかれる寂しげな吐息を聞きつけると、高比古はやはり、謝りたくて仕方なくなった。心依姫という、自分の意思とはかかわりなく娶ることになった娘との問題は、高比古のなかでは山積みだった。


「なあ、心依。もし、おれたちに子供ができたらどうする? おれの子供なら、もしかしたら妙な力をもつかもしれない。ふつうの奴には視えないものに魅入られて、妙なことを口走るかもしれない。そんな子の母親になってもいいのか」


(もしも生まれた後で母親に疎まれたら、その子供が哀れじゃないか?)


 自分にあった一番の恐怖を告げると、心依姫は微笑んで、いっそう細腕に力を込めた。


「なにが不安でしょう。お忘れですか? 私は巫女です。あなたの妻になったときから、一生巫女として仕えよと、神から啓示を受けたと疑っていません。生まれてくるのが兄様のような神の子なら、心依は母としても、巫女としても幸せになれます」


(神の子、か――)


 おれは神の子なんかじゃないよ。そういいたかったが、そういうことをいう雰囲気ではないことはわかった。


 納得したわけではなかったが、放っておけば永久に納得しないと思った。それならせめて、この姫のいうとおりにするべきだとも。それで、この姫の気が休まるなら――。


(これでいいんだよな――。こいつがそれでいいなら)


 ため息をつくものの、覚悟を決めると、高比古は腕のなかの小さな身体をぎゅっと力強く抱きしめた。


「不安を与えたのは、おれのほうだったな。これまで不安にさせて、悪かった」





 そのときは、夢かうつつかわからないまま過ぎ去った。


 自分の妻になってしまった哀れな娘が望むままに――と、高比古はできるだけ優しく接したつもりだった。


 幼い頃から死霊に記憶を置いていかれたせいで、なんとなく、こういうときに男がするべき正しい仕草や言葉には思い当たった。


 こうすれば、きっと娘には優しい。これは正しい。と、慎重に考え巡らしつつすべてを終わらせたが、よかれと思ってやったとはいえ、どれも本意ではなかったから、嘘といえば嘘だ。


 なんだか、正しいことをきちんとやってのける優良なべつの自分に、すべてを肩代わりしてもらった気分で――。朝が来て、自分の腕枕ですやすやと眠る心依姫の寝顔を見たり、掛け布からはみ出した裸の肩が肌寒いのを感じたりしても、いまいち実感が湧かなかった。


 でも、心依姫は幸せそうだった。


 朝のうちに、高比古は離宮を出ることになった。


「用事をたくさん残してきたから、いくよ。ゆっくりできなくて、すまない」


 心依姫は門の外まで足を運んで高比古を見送ったが、笑顔はのびやかで、不安という呪縛からのがれたように見えた。


「いいえ、兄様。心依は平気です。昨日は、むりをいってお呼びしてすみませんでした。お願いですから、またいらしてくださいね。心依は、兄様のことを――」


「わかった。また来るよ」


 心依姫の笑顔にいざなわれるようにして微笑むと、馬上で馬の腹を蹴り、離宮を去ることにした。


(これで、よかったんだよな)


 頭がぼうっとしてしまい、馬を走らせる気になれなかった。まるで、今朝まで自分の代わりを務めていたもう一人の自分と、うまく交代ができずにいるような気分だった。


 時間があるわけではないのに、のんびりと雲宮へ戻っていると、同じ道をたどる一行とすれちがった。昨日、離宮へいくときにも会った、黒雷という若駒を恭しく囲んだ下男たちの一行だ。


(里へいっていたらしいが、済んだのか)


 すれちがいざまに凛々しい黒毛の駿馬をまじまじと見ると、笑いがこみ上げた。それは、自分を嘲るような笑みだった。


(おれも、こいつと同じようなものだな。おれは、家畜か)


 そう思った瞬間、気が遠くなった。


 自分は、出雲という大国の頂きを目指していたつもりだった。周りも高比古がこの国の後継者になるのを支えていて、そのための箔付けとして、心依姫という宗像むなかたの姫を妻に与えた。でも――。


(それなのに、家畜と同じか。へんだな。家畜と同じになるために、そこまでして出雲にこだわる意味はなんなのだろうな。もう、よくわからない。帰りたい……)


 そこまで思うと、はっとこめかみを引きつらせた。


(帰る? どこへだ。おれには帰る場所なんかない。故郷はとっくにないし、いや、帰るとしたら、あの岩室だよ。出雲に来る前のおれの周りには、死人と精霊しかいなかったんだから)


 背中に、いやな汗が落ちた。


 暑いのに寒くなって、息が止まるような脈が速くなるような。奇妙な気分だった。


(くだらない。考えたくないことなら、しばらく放っておけばいい。いまに時が解決するよ)


 ふいに胸に湧いた暗い想いから逃げ出すように、高比古はすれちがったばかりの下男の一行を振り返ると、呼びかけた。


「雲宮に戻ったら、誰かに伝えてくれ。急用を思い出したから、越の里へいくと。夕方には帰る」


(そういえば、狭霧がいっていたっけ。越の里にいって水路をつくる匠と話したいって)


 ここ最近のあいだで、越の里の名を高比古の前でいったのは狭霧だった。でもそれも、いい合ったときに彼女の口から一度か二度出てきただけで、いってきてくれと頼まれたわけでもなかった。


 それが重要な役目でないということは、よくわかっていた。本当は、どこでもいいから、雲宮から遠ざかりたかっただけだ。


 雲宮に背を向けて馬を走らせながら、頬を吹き殴っていく朝の風を浴びて、胸が助けを請った相手は、狭霧だった。


(あいつに話したら、どうすべきか答えてくれるかな。いや――、こんなことを話すのは駄目だ。あいつに話したら、たぶんあいつはおれを責める。心依がかわいそうとか、酷い男だとか、おれを嫌がって、責めるよ)


 狭霧に、会いたくないな――。


 そう思うと、ひどく胸が寂しくなった。


 いまは狭霧に会いたくなかったが、それと同じくらい、狭霧に会ってはいけない気になった。心依姫に近づくのと引き換えに、大切な友人を失った気分だった。


(狭霧なら、たぶん本音が話せるのに。なにかあったときに、いまなら、まず相談したいと思う相手なのに――)


 妻をもつというのは本当に厄介だと思った。それは、なにかを失うのと引き換えだと、痛切に思ったからだ。


(いま、誰かに話したい。どうにかしたい――。誰なら話せる? 火悉海が近くにいれば――)


 出雲では会えるはずのない異国の若王の顔を思い出して嘆いた後で、高比古はふと手綱を操り、馬を止めた。背後を振り返り、目は雲宮のある方角をたしかめた。


(安曇に……)


 そこにいるはずの、信頼できる男のことを想った。


 でも――。高比古は首を横に振り、馬の腹を蹴った。


(雲宮には戻りたくない。いまなら、狭霧がまだいるかもしれない。あいつには会いたくない)


 そして、馬は再びのどかな野道を駆け始める。


 朝の湿った土を蹴り上げていく蹄の背後には、雲宮の影がかすかに見えていたが、それはすでに遠くなっていた。






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