序、水面の光 (2)




 意宇おうの薬師は、古くから、一族の子孫が親の職を継ぐ世襲制が当たり前になっていた。


 特別な職として、知恵をもつ人は王宮に留まり、出かける先は杵築きつきの王宮と戦くらいで、知恵は里に広がることなく、匿われたからだ。


 彦名に会って、宮中に学び舎をつくる許しを得ると、薬倉のそばの庭には、木の匠が出入りするようになった。そして、そこに建てられることになった学び舎は、粗末ながらも着々と小屋の形を成していく。四隅に建てられた太柱に梁が渡され、葦の壁ができ、草屋根が葺かれて――。


 狭霧がはじめたことに、古くからある一族の出の医薬師や、薬師は戸惑い、噂が囁かれた。


「薬師を増やす? 里から童を集めて……? 杵築の姫は、もしや、代々薬師を受け継ぐ我々を追いやる気では……」


 だから、狭霧は彼らのもとに出向いて、熱心に説得して回った。


「皆さんには、新しい薬師を育てるというお役目が増えてしまうことになります。でも、薬師の数を増やすのは、必要なことなんです。出雲ほど薬の知識が豊富な国はほかにありません。出雲の薬が欲しいと、すでに国と国のあいだで交易は始まっていて、もっとと要望をうけています。出雲は戦の国と思われているけれど、実は薬の国でもあります。だから、皆さんは倭国一の技をもっていると誇ってください。力を合わせて、いまから基盤をつくっていきましょう」


 狭霧が回ったのは薬師のもとだけではなかった。王宮を出て里へ出向き、学び舎で学ぶ童をつのった。


「薬師の数が増えて、薬がたくさんつくられるようになれば、交易が盛んになり、出雲は栄えます。それに、もっと大事なことがあります。皆さんの里から薬師が育てば、里にも薬の知識が広まります。病や怪我に脅えない暮らしができるようになるんです」


 医薬師の長、太藻津比古たもつひこははじめ、狭霧のいく場所にすべてついてきて、行動を逐一見張った。だが、里を回って、里長や長老を相手に熱心に語る狭霧を見続けて十日も経つと、狭霧の言葉にうなずくようになった。


「なるほど……。この姫は、出雲の薬が、無限に作り出すことができる鉄になると踏んでいるのだ。越の絹や宝玉と同じく、異国と取り引きをする宝のもとに」


 しだいに気を許していった太藻津比古は、狭霧の見張り役を息子、多伎たきに託すようになった。


 父がそばを離れるようになると、多伎は狭霧へ、太藻津比古のことを謝った。


「すみませんね、姫様。父はああいう人で、古風な頑固者で、新しいものを受け入れるのが苦手なんです。僕の一族は、代々医薬師の長を務めてきましたから、先祖代々の伝統を守るんだと、父は、もしかしたら……」


 そこまでいうと、多伎はいくらか気まずそうに肩を落とした。


「しかし……姫様がやって来て、僕は初めて気づきました。出雲に血の色は無用っていう力の掟は、薬師のあいだでは、あってないようなものかもしれませんね。薬師になりたくても、技が匿われて、学びようがないというのは――」


 そのとき、狭霧と多伎は馬に揺られながら横に並んで、林の中の道を進んでいた。


 かつ、かつと蹄の音が奏でるのどかな音や、頭上を吹き渡る風の音に包まれながら、狭霧は隣で馬を駆る青年を見上げて、くすりと笑った。


「わたし、考えたんですけど、それは薬師に限らずどんなことでも同じだと思います。農夫の子に生まれれば、お父さんみたいな立派な農夫になりたいと願うだろうし、漁師の子に生まれたら、立派な漁師に……って、きっと思うでしょう? だから、力の掟っていうのは、そうしなければいけない掟というよりは、意思さえあればどんな望みも抱くことができる、許しに近いのかもしれないです」


「力の掟が、望みを抱く許し……ですか」


 多伎は、苦笑した。


「姫様は、難しいことを考えるんですね。いったい、どうやったらそんなことを思いつくんですか? あなたの齢は、まだ、ええと……」


「十六になりました」


「十六! 僕より十も年下なのに――」


 いかにも驚いたというふうに芝居ぶって笑う多伎の笑顔は明るくて、彼の父である太藻津比古のような、客人まれびとを拒む強情さはなかった。好奇心旺盛な目で、多伎は珍しいものを愉しむように狭霧を見ていた。


「わたしが妙なことを考えたのは、きっと暇だったからです。しばらく阿多あたにいっていて、出雲に帰る船旅のあいだは、なにかを考えるか、ぼうっとするしかできなかったから」


「ああ、阿多……。南の地ですね」


 そこまで話すと、ふと多伎は顔を上げた。


 二人の前と後ろには警護の武人がいたが、狭霧と多伎を導いて先頭をいく武人の頭の向こうに、緑の屋根が途切れる場所が見え隠れし始めた。林の道果てに現れたまばゆい光を見つめながら、多伎は自慢げにいった。


「もうすぐ次の里に着きますよ。次は、朝酌あさくみ瀬戸せとという、意宇で一番賑わう市のある里なんです」


 林から続く一本道の先にあったのは、多伎が誇らしげにいったとおりの豊かな里だった。


 市がひらかれるという話にふさわしく、里から続く一本道には、大籠を背負った農婦たちの姿がいくつもある。


 狭霧たちの一行に気づいた農婦たちは、すれ違う前から道の端に寄って頭を下げ、道を譲った。


「こんにちはぁ」


「ああ、商いはどうだい?」


 馬上から多伎が声をかけると、農婦たちは顔をあげて朗らかな笑顔を向けた。


「見てくださいよ、背中の大籠にあった売り物は空っぽです。品切れなんで、引き上げるところですよぅ」


 一行とすれ違うなり、農婦たちはお喋りを始めたようで、狭霧は背中で賑やかな笑い声を聞いた。狭霧たちが進む一本道には笑い声や喋り声が響いていたが、笑っていたのは彼女たちだけではなくて、同じように籠を背負って歩く農婦たちの姿が道のあちこちにあった。


 帰り支度をしている農婦たちを眺めて、多伎は悔しがった。


「もう昼過ぎですから、市は終わっているでしょうね。惜しいなあ。姫様に市を見せたかったなあ。ここは、彦名様がとくに力を入れて整えた里なんですよ。ほかの里の手本にしようと……」


「市の賑やかさは、じゅうぶん想像がつきますよ。この先にある里は、とても豊かなんでしょうね。それに――」


 そのとき、狭霧の目は一本道を逸れて、その両側に広がる稲畑に向かっていた。


 時は夏。稲は青々と茂り、もみの丸粒の形を授かった稲穂は、夏の湿った風に吹かれて重そうにゆっくりと揺れていた。


 稲畑の周りには、近くの川から水を引かれた水路が張り巡らされ、ところどころの土手には、平たい石を渡して足場をつくった水場がある。そこには、泥がついたままの野菜が盛られた籠が置かれて、お喋りをしながら野菜を洗う女たちの姿があった。


 そばを通りぬけながら、狭霧はぼんやりと目で追った。


(里は、どこも水場を中心に広がるのね。山ぎわには山ぎわの暮らしがあって、海のそばには海のそばの暮らしがあって。水路が、きれい……)


 こうした水路が整えられている里は、いま訪れている朝酌だけではなかった。


 狭霧が暮らした杵築でも、水路は方々を通って水を運び、田を潤していた。


(川、水路か……)


 杵築の風景を思い出していると、ふと胸に、ちくりと刺すような痛みが走った。


 そうかと思えば、狭霧の目の奥には、異国の若王の顔が蘇る。


 水を溜めない白砂の農地を前にしてため息をついていたその人の横顔も、頭にくっきりと浮かんだ。


『国を守るものは戦だけか? 俺はそうじゃないと思う。前に狭霧を農地に連れていっただろう? あの土を豊かな農地に変える方法が見つかれば、同じ土に苦しんでいる薩摩にも、大隅にも、それを伝えてやることができる。そうすれば、きっと――』


火悉海ほつみ様……)


 狭霧を自分のそばに引きとめようとした彼の指の力強さも、それに掴まれた手首ははっきり覚えていた。


(そういえば、出雲の水路をつくる技って、ほかの国より上なのかな。もしそうなら、水路をつくる技をもつ人を阿多へ遣わせば、火悉海様のお役に立てるかな。そうしたら、出雲と阿多の繋がりは今よりも深くなるかな――。今度、誰かに聞いてみよう。でも、こんなことを聞いて教えてくれる人って、誰だろう)


 そう考えて、ふっと頭に浮かんだのは、やはり青年の顔だった。深い袖のある優雅な衣装に身を包んで人懐っこく笑う、こしという異国の若王。


真浪まなみ様……)


 その人のことを思い出すなり、狭霧の目はえんえんと続く緑の畑を越えて、山の向こうをたどった。


(そういえば杵築には、越の人がたくさん移り住んでいる里があったっけ。今度戻った時にいってみて、そこで聞いたらわかるかな)


 覚えなくちゃいけないことが、まだたくさんある。


 いったことがない場所も、知らないことも、たくさん――。


 彼方の風景に見入った狭霧に、多伎は呆れたふうに笑った。


「どうしました。ぼんやりなさって」


 いつのまにか、狭霧は馬の歩みまで止めていた。狭霧に合わせて、警護の武人も多伎も、手綱を操ってその場で待っていた。


 それに気づくと、狭霧ははっとして謝った。


「すみません、つい。水路がとてもきれいだったので……」


「水路が?」


「はい。なんていうか、川や海もきれいだけど、水路もとてもきれいですよね。水路は、人が暮らす場所をつくって、人の笑顔もつくっている気がするんです。だから……」


 はにかみながら思ったままを素直に告げると、多伎は苦笑した。


「前に、須佐乃男様もここでこの景色を見て、同じことをおっしゃっていましたよ」


「おじいさまが?」


 目をしばたかせる狭霧に、多伎はくすぐったそうに肩を揺らした。


「前に僕が、彦名様の命を受けて、賢王を朝酌の里へご案内した時でした。その時の賢王のお言葉は、僕はいまでも覚えています」


 そういうと、深く息を吸ってから、多伎は朗々といった。


「『この水の流れをごらん、これほど簡潔に物事を表すものは他にない。山から海へと流れゆく水が、長い時をかけて大地をうがったものが川だが、その造りを人はうまく真似て、田畑を潤す水路を掘り、土手をつくり、港へ船を運ぶ運河をつくるのだ。自然のままの水辺も美しいが、人のために仕上がった水辺もまた、美しいよなあ』。……以上、須佐乃男様、談です」


 冗談をいうように多伎が締めくくると、狭霧には、止められそうにない笑いがむず痒くこみ上げた。


「人のために仕上がった水辺もまた美しい、か。おじいさまが、そんなことを――」


 しみじみとつぶやく狭霧に、多伎はくすくすと笑った。


「水路に魅せられたのなら、あなたも、須佐乃男様と同じ道をいかれるかもしれませんね。あるいは、あなたが次の賢王と呼ばれる日が来るとか……」


「大げさですよ、そんなんじゃないです。わたしは、おじいさまみたいにきちんと考えられないけれど、ただ、この景色はきれいじゃないですか」


「謙遜しなくても、僕はありえない話じゃないと思います」


 多伎は狭霧を持ち上げるようにいった。


「意宇の医薬師と薬師たちは、あなたが来てからというもの、あなたの噂ばかりをしていますよ。あの姫君は、いったいおいくつになられたんだ。前にお見かけした時はまだ童女だと思っていたのに、王者のごときあの落ち着きはいったいなんだ――と」


「そんな……」


 ばつが悪そうに苦笑する狭霧を、多伎は手綱を取る手をじわじわと浮かせながら、せかした。


「さて、そろそろ先へ進みましょうか。早めに朝酌の里を出て意宇に戻らなければ、あなたの信奉者たちから、姫様を一人占めするなと、僕は妬まれてしまうでしょうから」


 多伎が口うまくいうのは冗談だ。それはわかったから、いちいち反論する気は狭霧に起きなかった。


 でも、あぶみに乗せた足の内側で馬の腹を蹴って、再び一本道を進みはじめた馬上で、狭霧はじっと彼の言葉を考えた。


(わたしが意宇にいってから噂になっている、か。前に見た時は童女だと思っていたのに……これって、褒め文句でもなんでもないわね。去年までのわたしが、それだけ幼かったっていうことだもの。それに――)


 先駆をする武人の後を多伎と並んで追いながら、狭霧は無言で宙を見据えた。


(王者のごとき落ち着き、か。そう思われているなら、それでいいか。わたしは決してそんな娘じゃないけれど、運よくそう思われたのなら、がんばってごまかしとおそう。そのほうが、きっと早く願いが叶う。幸い、きっとそんなに長い間じゃないわ――)


 あと一年か、二年か、それとも、半年か。


 出雲と大和の間になにかが起きて、自分がその仲立ちとして遣わされる日は、おそらく、それほど遠い先ではないだろう。


 須佐乃男を頼ってまで杵築を出て意宇へ移り住んだり、薬師を増やすための奔走を始めたりしたのは、狭霧に、どうにかしたいという意思が芽生えたせいだった。


(いつ、その時が来るかわからない。だから、出雲でやっておきたいことは、今のうちにすべてやっておかなくちゃ)


 いつのまにかこびりついた取れない染みに似た胸の決意をたしかめると、狭霧の耳にふっと蘇る声があった。


 早くしろ。すぐに。今すぐ。


 迷っている暇はない。たった一つの正答を見つけ出して、すぐさま、おこなえ――。


 狭霧にそういった青年のことを思い出すと、泣き笑いをしたくなるような震えがこみ上げた。それで狭霧は宙を向いたまま唇を結んで、表情が変わるのをこらえた。


(高比古は、元気にしているかな――。無事だといいけれど)


 その青年は先月、帰郷して半月もしないうちに、出雲を離れてしまった。


 噂によると、彼にその命を下したのは狭霧の父代わりであり、父王のそえである安曇あずみで、彼の遠方赴任は、阿多で彼がおかした過ちに対する罰、との話だった。





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