智慧を継ぐ者 (1)



 高比古が一年のあいだ出雲を離れるという話は、大っぴらな噂となって意宇おう杵築きつきの都を駆け巡った。


「高比古様が――。阿多の地でなにかをやらかして、長門への赴任は謹慎代わりという話だが」


「阿多へ一緒にいった兵の話だと、乱を起こすきっかけとなったそうだよ」


「乱を? しかし、一年は長いぞ。もしかするとお偉い様方は、高比古様を次の王に選ぶのを躊躇なさっているのでは――」


「これは、おおごとだ。高比古様は、次期王の最有力候補だ。その方が一年ものあいだ出雲から姿を消すとあれば――これは、荒れるぞ」


 高比古は、もともと意宇の王の候補といわれていた。しかし、ここしばらくは杵築の王の候補としても名があがっている。


 高比古が長門へいったという噂が広まると、とくに杵築は、次の王の座を狙う若者たちで活気づいた。高比古の不在を狙って、いまのうちに名を挙げようとする猛者が少なくなかったのだ。


 その最たる者が、大国主と正妃の御子、盛耶もれや王。母の離宮に仮住まいをしていた彼が杵築の雲宮を闊歩するようになると、彼の周りには、いまのうちに取り入ろうとする者も現れはじめた。


 次の王は俺だ。いや、彼だ――。この機に乗じて位を得るのは、自分だ――。


 野心を秘めた目であちこちを射抜きながら若者たちが行き来する雲宮を、訪れた王がいた。須佐乃男すさのおだ。


 その老王は、出雲王という位から退いたとはいえ賢王と呼ばれて、いまなお一目置かれる。齢は六十を超えたが、若い頃の猛者ぶりがしのばれる長身や、颯爽とした身のこなしは、老齢を感じさせなかった。


 居城とする須佐の離宮から、雲宮の兵舎まで馬で乗りつけた老王は、地面へ降りるなり、若者にひけをとらない大股で大庭を横切った。須佐乃男がわき目もふらずに向かった先は、兵舎の中央にあった小さな舘。そこは、安曇あずみの居場所だった。


「これは、須佐乃男様」


 老王の急の訪問に、もちろん安曇は驚いた。


「いったいどうなさったのです。大事な用がおありなら、使者を送ってくだされば、私が離宮へ出向いても……」


 しかし、舘の戸口を塞ぐようにすっくと立った須佐乃男は聞く耳をもたない。


 広間の中央でぽかんとする安曇を睨みつけて、老王は大柄の身体に怒気をまとわりつかせた。


「高比古を一年ものあいだ、長門へ送ったと? 理由はいったいなんだ」


 老王は、杵築や意宇で囁かれることになったその噂を聞きつけたのだ。


 安曇は老王がやって来た理由を察したが、首を傾げずにはいられなかった。


 須佐乃男は、高比古にいわせれば「出雲の大狸」。腹でどんなことをもくろんでいようが、ひょうひょうとした笑顔ですべて隠してしまう、したたかな爺だ。


 その須佐乃男が、このように慌てて、自分のもとにやってくるなど――。


 安曇は文字をしたためていた手を止めると、記載用の木簡がおかれた文机から離れて、面と向かって床に膝をついた。


「須佐乃男様、実は私も、ちょうどあなたに相談が――」


「わしに相談? なら、まずはおまえの話から聞いてやる。話せ」


 須佐乃男は不機嫌だった。ずかずかと館の中央までやってくると、どっかりと腰を落とす。


 老王が腰を据えたのを見はからって、安曇は正面にあぐらをかいた。そして、老王の目と自分の目を合わせると、慎重に唇をひらいた。


「では、申し上げますが。実は、その高比古のことです」


 安曇が話したのは、杵築の後継者のことだった。


「あなたは前から、高比古は意宇ではなく、杵築を継ぐほうがふさわしいと、そうおっしゃっていましたよね」


「ああ、それがどうした」


「彼に杵築を継がせるのに難が……というわけではないのですが、ここしばらく彼の様子を見ていると、少々、気になるところがありまして」


 後継者選びに、出雲の誰より慣れているのは須佐乃男だった。


 この老王は、意宇の王である彦名や、杵築の王、穴持なもち、それから、いま重要な役割を担う位に就くほとんどの者の指名に、これまで携わってきている。


 後継者選びにおいて、須佐乃男は須佐乃男なりの掟をもっていたが、安曇はそれを直接教わったことがあった。それは、こういうものだ。


 育てている若者がなにかまずい選択をしても、二度は許してやれ。例えそれが、国を傾けることでもだ。


 一度目の過ちは、その者の行く末を判じるにふさわしい過ちで、二度目は、一度目のあとの試行錯誤に決着がつくゆえの過ちだ。


 一国の長たる者は、一度二度失敗をしておいたほうがいい。ただし、三度目の過ちをおかすようなら、その者は長にするには学ぶのが遅いか、決断の才覚に見込みがない。切り捨てるべし――。


 それに従った安曇は、高比古を長門へ赴任させることにしたのだった。


「高比古をどうすべきでしょうか。穴持様は軍律に厳しい方です。過ちをおかしておいてお咎めなしというのは、下に示しがつきません。とはいえ、いまは大事な時期。一年といわず半年で引島から戻して、ひとまず罰を与えたということで体面を繕おうかと思っているんですが」


 ふうと息を吐きつつ、安曇は迷いを語った。


「高比古がおかした過ちは、これが二度目です。一度目は宗像むなかたで、あなたといるときに宗像の王に逆らったとか。高比古が策士という位を得ていたからこそ、いえ、その王の孫娘を娶ると決まっていたから見逃されたことで、それは過ちです。そしてまた、阿多でも――。次になにかすれば、三度目です。しかし、彼の様子を見ていると、彼が目を覚ましたようには私は思えません。これでは、そのうち三度目も必ず起こります。今後、いったいどうすればよいのか――」


 深刻なふうに目を伏せて安曇が告げると、須佐乃男は忌々しげにため息を吐き、目を逸らして床を見つめた。


「穴持はなんといっていた」


「穴持様ですか? あの方なら、私に任せると」


「あの、阿呆。いつまで――」


 老王は肩を落としていて、大きな手のひらで目もとをおさえた。その手にも額にも目のきわにも、深く刻まれた皺があった。うなだれたままの姿勢で、老王は淡々といった。


「ならば、わしの意見をいおう。そのような過ちなど、過ちのうちに入らんよ。わしの言葉でいうなら、それはまだ試行錯誤の途中だ。その程度の騒ぎなら、穴持は若い頃に何度も起こしているぞ。あいつのそばにいたくせに、おまえは忘れてしまったのか? 騒ぎを起こせるということは、すでになんらかの中心にいるということだ。凡人がなにをしようが見向きもされないもので、そう考えると、周りを巻きこむくらいのほうが、王の器があるといえるのではないか。なにより、騒ぎを騒ぎとしないほど土台がしっかりしていれば、問題にならないはずだ。事実、なにごとも起きなかったのだろう?」


 苦しげに息を吐いた老王は、目もとからじわじわと手のひらを放した。姿勢はうつむいたままで、木床をじっと見つめていた。


「高比古か。あいつの長所を一つあげるとすれば、取捨選択が早くてうまいことだ。だが、同時に、物事のあれこれを切り離して考えるくせがあった。だからわしは宗像で、それを繋げる方法を教えたつもりだ。そして、繋がりを理解したうえで捨てることも、あいつはできた」


 はあ……と、須佐乃男は長いため息をつく。


「あれだけ育っているのに、あいつを遠ざけるのか。それとも、一からほかを育て直す気なのか」


 安曇は、首を横に振った。


「遠ざける? そうはいっていません。高比古を冷静にしてやりたいと……」


「冷静に? あいつにもともとあった冷静さなどは、無知な子供ゆえの冷静さだろうが? あいつにいま学ばせているのは、世のあれこれを覚えたあとでも冷静でいるためのすべではないのか。あいつは石頭で、そのうえ知識に偏りがあるから、その例の数々を身に叩きこんでいるところではないのか。あいつが騒ぎを起こしているというなら、それは、そのための場ができているということだろうが?」


 須佐乃男の口調は、しだいに荒くなる。やがて老王は、頭に血がのぼったというふうに拳を震わせはじめた。


「それが当然の罰なら下せばいい。見限って、ほかの若者を育てるのもかまわん。けっこう、大いにやれ。だが、乱を起こすなどたいしたものだと、笑い飛ばすだけの余裕をもつ奴が、なぜ一人もおらんのだ。出雲はその程度の国なのか!」


 いつもひょうひょうとした笑顔で思惑を隠していた男とは思えないほど、老王は激昂した。須佐乃男は怒りで顔を赤くして、安曇を相手に怒鳴り散らした。


「それより、わしはこの国の行く末が心配になったぞ。安曇、よく聞け。『強い者が上に立つ』という力の掟が、うまく働くためにはな、なにより重要なものがある。それは、確固たる上の目だ。誰のなにが強くて上にいくべきかと見極める上の目が育っていないのでは、この掟はただの形だけものになる。捨てたほうがいいものになるかもしれん」


 老王の怒りがおさまる気配はなかった。


 丸めていた背筋をぴんと張って、安曇を睨みつけた須佐乃男は、歯に衣着せずに罵倒した。


「その役を、わしから引き継ぐ相手はおまえだと思っていたが――おまえには失望した。小さなことに逐一こだわって、いちいち女々しく咎めているようでは、大国の見極め役は任せられぬまい。若者の過ちなど、いってしまえばどうでもいいのだ。若者はすぐに育ち、すぐに変わる。あとからどうにでもできることだ。もっともまずいのは、それが是か非かを見極め切れん、おまえたちの力不足だ。おまえも彦名も穴持も、揃いも揃って……! 穴持の尻をひっぱたくのがおまえの役目だろうが、どうにかせい!」


 呆気にとられて、安曇は目をしばたかせた。


 このように怒り狂う須佐乃男を見たのが、安曇ははじめてだった。いや、これまでに、ほかの誰からも、須佐乃男がこのように荒れるところを見たという話は聞いたことすらなかった。


 須佐乃男といえば、つねに冷静沈着で、しかも余裕の笑みを崩さない男だ。その老王が、いまや安曇の目の前で、顔を赤くして焦りを見せ始めた。


「老いるは人の道理と、わしはこれまでなんの疑問ももたなかった。だが、わしは生まれてはじめて、老いることが苦しくてかなわなくなった。……安曇、満足か? おまえはわしを、これ以上はないほど苦しめた」


「須佐乃男様……」


 ぽかんと口をひらいて老王を見つめながら、安曇は血の気が引いていくのを感じた。身の内に巣くっていたどろりとした膿が、しゅうと音を立てて消え去ったような、妙な消失感も――。


 終わりに、老王は嘆願するようないい方をした。


「安曇よ。頼むから、もっと頭を柔らかくしろ。力の掟の根源はなんなのだ? 血筋が意味を成さないように、二つの王都や、二人の王の意味などは、出雲ではどうでもいいのだ。そこはこだわるべきところではないのだ。一つがよければ、都など一つにまとめてしまってもかまわんのだ。出雲の掟を理解している者が誰ひとりいないとは――あぁ、老いるのが恐ろしい。次が育つまで、わしの精が続くかどうかがわからん。恐ろしい……」





 安曇にとって須佐乃男は、奇怪な化け物のような存在だった。


 いつも笑顔を浮かべているが、その笑顔を保ったままで恐ろしいことを平気でやる。奪うと決めたら根こそぎ奪い去るし、障りになると判断すれば、即座に消し去る。


 そうして、若い日のその王は、笑顔を浮かべたままで安曇の故郷を焼いた。


 安曇は、とある鄙里で生まれた。ある日、その里は、たまたまそばを通った須佐乃男の軍を受け入れて一晩の宿を貸した。安曇が須佐乃男に出会ったのはその折で、八つの齢のときだった。


 安曇が暮らす里で野宿をした出雲の武人たちは、夜の暇つぶしに、模擬戦というものをおこなっていた。それは、布に描かれた四角い絵の中で、小石を決まりに従って動かすというもので、戦術勝負に見立てたものだった。それは、八つの少年にとっては物珍しい遊びに見えた。


「ねえ、おれにもやらせてよ!」


「坊主がか? まあいい、やってみろよ。教えてやるから」


 出雲の武人のそばで目を輝かせた幼い安曇は、見よう見まねで模擬戦に加わった。そして、勝ち続けた。


「この坊主、いったいなんなんだ? これはもう、まぐれじゃねえ……」


 武人たちは目を丸くして、軍勢の長、須佐乃男を呼んだ。そして、やって来た須佐乃男の目の前でも、安曇は才覚を披露した。


「須佐乃男様、この坊主……」


「ああ、逸材だ。ぜひとも欲しい。今回の旅の、一番の土産になるだろうな」


 安曇の才能に満足した須佐乃男は、翌朝になると里長のもとに出向き、安曇を出雲に連れていきたいと願い出た。しかし、里長も安曇の親も、うんといわなかった。


 だから、須佐乃男は、剣と火矢で里を制圧した。燃え広がる炎に逃げ惑う里人たちを微笑んで見ながら、須佐乃男は安曇に縄をかけさせた。


「さあ、いこう。平気だ。焼いたのは住居と物だけで、人は死なないように努めた」


 平気だと? なにが平気だ。


 なぜ、笑うんだ。おれを浚っておいて――おれの里に、火を放っておいて!


 そのときから、安曇にとっての須佐乃男は故郷を奪った敵……出雲そのものだった。


 須佐乃男を恨むあまり、心を閉ざした安曇の面倒を見たのは、安曇が仕えることになった少年、幼い頃の大国主だった。


 四つ年上の腕白な少年は、安曇によくかまった。でも、彼が同情することはいっさいなく、それどころか、故郷を想って塞ぎこむ安曇を馬鹿にした。


「おまえ、いつもうじうじしてるな。悩んでもなにも起きないぞ。それとも、悩むほどおまえは暇なのか? おれは、ちがうな。悩む暇なんかない。やりたいことだらけで、毎日とても忙しい」


 そして、無理やり安曇の手を引くと、十二歳の少年は、新しい遊びや武芸を次々に教えた。


「おまえ、飲み込みが早いな。ああ、そうだよ。矢を射るときは、的以外を見ては駄目だ。後ろを気にしても、いいことなんか何一つない」


 その少年は、安曇の身に起こったことを知らないわけではなかった。安曇の故郷が須佐乃男に奪われたと知った上で、わざとそのようにいい続けたのだ。


 安曇がそれに気づいたのは、それからしばらく経った後だった。


 ある日、深刻な悩み事を告げるふうに、実は……と、出雲へ来ることになったいきさつを打ち明けると、幼い大国主は、目の前で肩を落とす安曇を睨むようにして強く笑った。


「だから、なんだ? いやなことなんか忘れろよ。そうしないと、この先にあるいいことを逃してしまうぞ? それは、とても馬鹿らしい」


 「振り返るな」、「先を見ろ」。それは、幼い頃から大国主の口癖だった。


 そうか、過去を振り返っても、なにも起きないよな。いやなことにこだわっても、いいことはないよ。忘れるべきだ。そうするべきなんだ――。


 主となった少年の言葉を聞き続けるうちに、安曇の心の傷は癒されていった。そして、彼の手助けをしたいという一心で、武芸やほかの稽古に力を尽くすようになった。主に従って戦に呼ばれれば、懸命になって手柄を立てた。


 でも、どうしても、安曇は須佐乃男が苦手だった。


 だから、安曇には胸に誓ったことがあった。


 自分は、無理やり連れ去られた国、出雲に忠誠を誓うのではなく、敬愛する主、大国主に従うのだ。もしなにかが起きて、大国主が出雲の敵に回るといい出したら、喜んで出雲を討つほうに回るのだ――と。


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