最終話 ルシオール

 それからも色々あったと思う。

 カシムと冒険したり、地獄勢力との戦いに参加したりもしたはずだ。

 その中で、蛍太郎が果たした役目も小さくなかったし、ルシオールの果たした役割も重要だったはずだ。


 しかし、今となっては、そんな事はどうでも良い事だった。





 ルシオールは、美しい森の中を、木の桶を持って歩いている。

 近くにある小川に水を汲みに来たのだ。


 透き通る小川の水は、青空が反射して煌めいている。

 のぞき込むと、ルシオールの顔も、黄金色の髪も水面に映る。

 触るとひんやり気持ちいい水を、桶に汲む。


 ルシオールはずっと今日の日を待ち続けていた。

 ルシオールは、この日の為だけに生きてきたのだし、生まれてきたのだ。

 もうすぐ待ち望んでいた瞬間がやってくるのだと思うと、体が喜びで震える様だった。



 あれからどれぐらい時間が経ったのか分からない。

 短かったのか、長かったのか・・・・・・。

 あの戦いは昨日の事だったような気もすれば、何十年、何千年も前の出来事だったような気もする。

 ルシオールにとってはそんな事は些細な事だった。

 

 ルシオールの記憶は、結局今に至るまで、完全に戻っていない。

 なぜ今日が特別な日なのか。

 今日叶う願いがなんなのか、実は今以てしても分からない。

 分からないのに、確信だけは持っている。

 それは、とても喜ばしい事であると言う事を。




 ルシオールは水の入った木の桶を運ぶ。

 小さい体で、水の入った桶は重いが、こぼさずに運んだ。

 

 少し進むと、一軒の小屋があった。

 赤い三角屋根で、煙突が生えていて、煙突からは煙が出ている。

 階段を上がったらポーチが有り、白いドアが付いている。

 出窓には、花が飾られていて、レースのカーテンが引かれている。


 

 ルシオールは、頑張って階段を上ると、玄関の前で一度桶を置く。

「フーーーー」

 ため息を一つ付くと、玄関ドアを開ける。

 カラン、カラン。

 ベルが鳴る。


 ドアにストッパーとなるレンガを咬ませてから、桶を持ち上げて家の中に入る。

 家に入ると、足でレンガを蹴って、ストッパーを外し、ドアを閉める。

 そして、そのまま、桶を水瓶に運んで、水を移し替える。

 ジャバ~~~。

 水の流れる音が家の中に響く。

 

 すると、部屋の奥から穏やかな声がする。

「ああ。ルシオール。ご苦労様」

 部屋の奥には、薄いレースのカーテンが掛かっている。 声はカーテンの向こうからする。

「ケータロー。のど渇いたか?」

 ルシオールが生き生きした声で尋ねる。

 すると、カーテンの向こうから苦笑が返ってきた。

「ああ。そうだね。ルシオールも飲んだら持ってきておくれ」


 ルシオールは幸せだった。

 蛍太郎と二人で、穏やかな時間を過ごしている今が、とにかく幸せだった。

 

 蛍太郎とルシオールは、結局肉体的な結びつきは一切無かった。

 だが、精神的な結びつきは、誰よりも強いと思う。

 それで充分だった。

 

 それに、最高の幸福は、もうすぐ訪れるのだから。それがどんな物か、やはりルシオールには分からない。

 ただ、その為だけに、永遠とも言える時間を存在していると言う事は、今ボンヤリと思い出してきた。

 その瞬間に向けて、徐々に記憶が戻っていく。

 このもどかしさも、また幸福感を煽ってくる。



 ルシオールは、小さなコップで水瓶から水を掬って飲むと、もう一杯掬い取る。

 そして、こぼさぬように気を付けながら、レースのカーテンをくぐって、蛍太郎の待つ部屋に向かう。


「ありがとう」

 穏やかに言う蛍太郎は、ベッドの上で、壁に上半身をもたせかけて座っていた。ベッドの上にはレース越しの外の明かりが柔らかく降り注いでいる。

「ケータロー。水だ。どーぞ」

 ルシオールは蛍太郎の口にコップを持って行き、背伸びをして水を飲ませる。


 水を飲むと、蛍太郎は、ゆっくりと体をずらして、ベッドに横になる。

 ルシオールも、コップをサイドテーブルの上に置いた。


 静かな、穏やかな時間が過ぎる。



 ルシオールには分からない。

 蛍太郎が若いままなのか、年を取っているのか。

 今の蛍太郎が何歳なのかも分からない。

 それはルシオールにとっては、全く意味の無い概念だったからである。

 それより、蛍太郎が側にいる事が重要だった。




 そして、蛍太郎が間もなく死ぬ事も、ルシオールは分かっている。

 いや、今、この瞬間に思い出したのである。

 だが、それが不快では無かった。以前のように、蛍太郎の死を想像して泣いたりもしなかった。


 ただ待っていた。幸福が訪れる瞬間を。

 

 思い出していく。これまでの事も、これからの事も。


 そして、その時は来た。




「ルシオール」

 蛍太郎が、静かに口を開いた。

「あい」

 ルシオールが答える。

「俺の可愛いルシオール」

「あい」

 青い瞳から、ブルートパーズがこぼれそうなくらいに、一心に蛍太郎を見つめる。蛍太郎の言葉を聞き逃すまいと、顔を近付ける。


「ありがとう、ルシオール。俺は幸せだった」

 蛍太郎は、苦しそうに一度咳をする。

 ルシオールが蛍太郎の胸に手を当てる。


 究極の願いが、ずっと待ち望んでいた願いが叶う時が来た。

 


「愛しているよ」



 初めて蛍太郎がルシオールに対して言った言葉だった。

 この言葉を聞きたかったのだ。

 この言葉を蛍太郎に言って貰う為だけに、ルシオールは生まれて、今まで生きてきたのだ。

 この瞬間、ルシオールの幸福は最大になった。

 そして、初めてルシオールは蛍太郎の唇に、自分の唇を合わせた。

 その時には、蛍太郎は既に、静かに息を引き取っていた。

 

 蛍太郎は死んでしまった。

 にもかかわらず、ルシオールは幸福に包まれていた。

 ルシオールの記憶は完全に戻っていた。


 これが終わりでは無い事を知っている。

 

 これが始まりでも無い事も知っている。

 

 では何時いつが始まりだったのかなど、とっくに忘れているし、ルシオールにとっては何の意味も成さない。


 そして一言唱える。



『時よとどまれ』


 

 全ての宇宙が、次元が、一瞬輝く。


 ルシオールは知っていた。

 もう一度誕生から繰り返せば良いのだ。

 そうすれば、もう一度この幸福を味わえる。

 何度でも味わえる。

 何度も、何度も、蛍太郎に「愛している」と言って貰える。

 それはルシオールにとって、何にも代えられないほど重要な事だったのだ。

 もう、何度も何度も繰り返している。

 そして、何度もこの幸福を味わっているのだ。


 蛍太郎が死んでいなくなる事を恐れる必要は無い。

 すぐにまた会えるのだから。

 何度でも、何度でも。

 たった一言の幸福の為に。



 ルシオールの姿は、遙かな次元に行き、そして、消えていった。


 「ケータロー。私も愛している」


 次はそれを伝えられるといいな、とルシオールは最後に思った。






- 完 -

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