第1話 初夏 8

 短縮授業で、今日は午前中で授業が終わった。

 しかし、授業の内容がさっぱり頭に入ってこなかった。「後で、美奈に教えてもらおう」と思いながら荷物を整理する。

「山里君?今日は英語のノートでいい?」

 そんな声に耳ざとく反応して、教室後方の山里の席の方を振り向く。

 見ると、委員長の根岸小夜子が山里の隣の席を移動させて、山里の机とくっつけていた。そして、当然のように隣に座ると、机の間に指し渡すようにノートを置いて広げる。

「ありがとう」

 山里が身を乗り出してノートをのぞき込む。小夜子も一緒にノートをのぞく。

 必然肩と肩が触れんばかりに接近する。

「近い近い!!」

 千鶴の心がなぜか悲鳴を上げる。

「根岸さんのノート、本当にわかりやすいな。助かるよ」

 そう言うと、山里は鞄を開けてノートを出そうとする。

 小夜子は目ざとく山里の鞄の中に入っている文庫本を見つけた。

「あれ?宮沢賢治?山里君好きなんだ?」

 常になく明るい声を上げて、小夜子が身を乗り出して、山里の鞄の中をのぞき込む。山里の顔と小夜子の顔が接近する。肩は完全に触れあっている。

「あ・・・・・・!ちょっと!」

 千鶴がガタリと椅子を鳴らす。小さいながらも悲鳴が上がってしまった。

 ギリギリ周囲に聞こえないレベルだ。

山里は、少し体を反らして、小夜子が鞄の中を見やすいようにしてやる。必然密着が解ける。山里は、表面上小夜子との密着を気にしている素振りは見えない。

 普段通りクールな山里だ。千鶴の知っている山里のさりげない優しさが、離れて見ている千鶴の心のざわめきを一先ず沈めた。

「ああ。まあ、特にって訳じゃないけど、本は好きかな」

 山里が小夜子の質問に答える。

「私も本好きだよ。山里君は他にどんな本を読むの?」

「家に父さんの本がたくさんあるから、それを適当に借りて読んでるんだ」

 山里は自分のノートに書き写しながら小夜子と会話していく。


「ああ。先生に言われて委員長が山里君のテスト範囲をチェックしてるんだって」

「ひや!?」

 気付くと隣に美奈がいた。

「だから、放課後、時々一緒に勉強してるんだよ」

 そういえば男子に遊び誘われても「勉強だ」って断っていたのは本当だったんだ。と、妙に納得するが、それを聞くと胸がたまらなくざわざわと不快な気分になる。昨日の放課後も、勉強してたって言ってたが、小夜子と一緒だったのだろうか。

「今日はいつになく盛り上がってますな」

 美奈が「ひっひっひっ」と笑うと、なんだかイライラする。美奈は色んな部活に参加しているので、放課後の教室での二人の事を知っているのだろう。

「さて、姫にそんな顔させる事になった経緯いきさつ、しっかり聞かせてもらいますからね!」

 美奈は、山里と小夜子から目を離せなくなった千鶴の腕を掴んで、無理矢理立たせると「あの、もうちょっと!」と悲鳴を上げる千鶴を引きずるように教室を後にした。




「あんた、それ『恋』だよ」

 駅前のファミリーレストランのテーブルに頬杖をついて美奈が断言した。

「こ、恋?」

 千鶴は思わず大きな声を上げてから、周囲をはばかって口元を押さえた。

「千鶴もさすがに気付いてるんでしょ?」

 美奈の指摘に思わず息が詰まる。そして、顔を赤くしながらもうなずいた。

「それにしても、山里君にそんな事情があったとはねぇ・・・・・・」

「あのね、美奈。それ誰にも言わないでね」

 山里に黙って、事情を話してしまった事に後ろ暗い思いがする。

「言わないよ。・・・・・・でも、千鶴。あんたの気持ちは同情とかじゃないの?」

 美奈に言われてハッとなる。

 それから自分の気持ちを探ってみる。

 その時、山里にもらったハンカチの事が浮かんできた。

「同情じゃ・・・・・・ないと、思う」

 同情だったら、妹のかも知れないハンカチを受け取ったりはしなかったはずだ。もしかしたら形見なのかもと思ったが、それよりもあのハンカチが、どうしようもなく欲しかった。

 借りてきた夜も、洗濯を終えたハンカチを何度も手にして、いたたまれない思いをするでもなく、ただ嬉しくて幸せな気分になったのだ。

 ハンカチをくれると言ったときは、もう飛び上がりそうになってしまったくらいだ。今「返せ」と言われても、もう到底手放す気にはならない。

「山里君の優しさがすごくわかった。怖がってた自分が恥ずかしくなる。あんなに優しくて、思いやりがあって、でもとても傷ついていて・・・・・・。私、力になれたらなぁって思う」

 千鶴の告白を真剣な表情で聞いていた美奈だったが、やがてため息を漏らす。

「本物かぁ~~。ついにあたしの千鶴が好きになる男が現れちゃったかぁ・・・・・・」

「み、美奈?」

「言っておくけど、山里君は競争率めっちゃ高いよ」

「う、うん」

「男版千鶴ってくらい人気あるんだからね!」

「ええ~?何それ~!」

 千鶴が頬を膨らませる。美奈はそんな千鶴の仕草の一つ一つが愛おしい。本当に守ってあげたくなるかけがえのない存在だった。

 下級生が喜ぶように、本当に同性愛嗜好がある訳では決してなかったが、こうして千鶴に好きな男が出来ると、渡したくないような、悔しいような気分になるから不思議だ。

「割と本気メンバーでも、久慈、小野寺、高野橋。わかりやすいがあの委員長も狙ってるんだ」

「ええ?」

 具体的な名前に千鶴は思わず身を乗り出す。飲み放題のジュースのグラスにぶつかりそうになるのを、美奈がさりげなくグラスをどける事によって回避する。

 千鶴は小夜子の態度を思い出し、まだ二人で勉強しているのかとやきもきする。

「当然、他のクラスや、下級生にも滅茶苦茶人気がある」

「ええ?」

 千鶴はなんだか泣きたくなってきた。

「あんたが聞いた山里君の話を、他の連中が聞いたら、きっと同情票も集まってさらに人気出ちゃうよ。あんたみたいに『あたしが慰めてあげる』ってヒロイン気質な連中にね」

「ええ?・・・・・・って、美奈、私の事馬鹿にしたぁ!」

 千鶴の拗ねたこの表情も美奈は大好きだった。

「悪い悪い」

 ちっとも悪いと思ってない、満足そうな表情で美奈が体をのけ反らせる。

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