第3話 地獄 7

 すさまじい叫び声が聞こえた。

 見上げると、多田と久恵、そして、ドリルのような化け物ごと千鶴を飲み込んだ、巨大なクジラの化け物が苦しそうに叫んでいた。

 体の半分が地面に沈み込んでいて、なんとか這い上がろうともがいているようだった。しかし、どんどん地面に沈み込んでいき、ついには人型の上半身もすっかり地中に飲まれてしまった。

後には、首を亡くした美奈の体だけが地面に倒れていた。

 すると、今までどこにいたのか、これまでより体の小さな化け物たちが現れて、倒れた美奈の体に群がって行った。

 耳を覆いたくなるような音が聞こえる。


 蛍太郎はもう、何も考えたくなかった。

 よろよろと立ち上がると、耳をふさぎ、叫びながら、坂を駆け下りていった。この先がどうなっていようと、もうどうでもよかった。


 蛍太郎は、気付くと再び暗闇の中にいた。真っ暗なトンネルだった。

 平衡感覚を失い、よろけて何度も転びながらも、一心に走り続けた。

 途中、自分はもう死んでいるのだとか、これは夢で、目が覚めたら大島の砂浜に寝そべっているのだとか、そんなことを考えてしまう。

 しかし、体中の痛みと、硬い地面を踏み締める足の裏が、すべてが現実だった事を物語っているようだった。

 何も考えたくなかった。走り続ければ、いずれ何らかの終着点にたどり着き、この不可思議な出来事が決着するような、根拠のない期待を抱いていた。それが、蛍太郎の「死」でもよかった。願わくは、速やかな死が与えられんように。


 またしても、暗闇の世界から、急に周囲が光ある世界へとなった。

 蛍太郎は空中を走っていた。

 地面は見えないが、踏み締める固い土の感触がスニーカー越しに伝わってきている。

 大地ははるか彼方下の方に、無限にも思える広がりを見せている。かなりの上空にいるにも関わらず、地平線が見えない。遠くに霞んで見えなくなるまで、大地と空が平行に続いていた。

 空は、やはり赤黒い光を放つ奇妙な靄で、一面覆われていて、それより高みに、何があるのかは全く見通せない。

 ひたすら広がる大地に、遠近感が掴めなかったが、よく見ると、山脈が見えたり、湖らしきところも見えた。それから察すると、かなり高いところを走っているようだった。


 高さを意識したとたん、足が空回りして、飛び込むように転んでしまった。

 倒れ着くところがすぐ足元だというのに、地面が見えず、見える大地は遥か下界にあるというのは奇妙な感覚だった。

 倒れた瞬間、ジェットコースターに乗った時とは比べ物にならないほど、ヒヤリと内臓を持ち上げるような感覚が蛍太郎を襲った。しかし、実際の落下はなく、空中に倒れこんで、鈍い痛みが胸を打って、「ぐむ」と呻くだけで済んだ。


 蛍太郎は倒れたまま大地を見た。

 大地には森林も所々に見えたが、ほとんどが、むき出しの赤や黄色の土の大地のように見えた。荒れはてた大地のようだった。


 その時、上の方から獣の咆哮が聞こえた。聞き覚えのある叫び声だった。

 見上げると、すぐ上の赤黒い靄の中から、さっきのクジラの様な化け物が、もがきながら落ちてきた。それは、成す術もなく、蛍太郎の目の前を落下していく。

 それを呆然と見送る蛍太郎の眼の端に、何かがものすごい速さで接近してくるのが見えた。

 あっという間にそれは近づいてきた。信じられない光景だった。

 クジラの様な巨大な化け物を、それを遥かに凌駕する巨大な人影が、まるで子犬でも抱くように、空中で軽々と捕まえた。

 そのあまりにも巨大な新たな化け物は、人間の様な姿をしていた。

 もちろん人ではなく、頭には髪の毛の代わりに、無数の針が生えていたし、その眼は四つあり、白目がなく真黒に濁っていた。翼もないのに、まるでマジックの様に空中に浮かんでいた。

 

 ビルの様に巨大なその体に、中世ヨーロッパの貴族が着るような服まで着こんでいるところが、どこかパロディーを感じさせた。

 しかし、パロディーなどではなく、その化け物は、捕らえたクジラの化け物を軽々と引きちぎると、半分を口で食べ、もう半分は、服の前をはだけさせると、腹に大きな口があり、そこに無造作に放り込んだ。

 そして、化け物の味を楽しむように、目を閉じてうっとりしたような表情をする。そして、すっかり飲み込むと、機嫌良さ気に唸ると、服を着なおして、またどこかへ飛び去ってしまった。

 

 蛍太郎の混乱に拍車がかかる。

 これは悪夢なのか?パロディーなのか?

 貴族の服を着た巨人が化け物を食べて鼻歌交じりに飛んで行く姿は、笑いが起きても不思議ではない景色だった。

 しかし、巨人が食べた化け物は、多田と久恵と、千鶴もその腹に収めていた。その化け物を食べた巨人は、つまりはその三人をも食べた事になる。

 最後に見た千鶴は、助からない身とは言え、まだ生きていた。クジラの化け物は、三人を飲み込みはしたが、かみ砕いたりした様子はなかった事からすると、もしかしたら、化け物の腹の中でついさっきまで三人は生きていたのかもしれなかった。

 しかし、さっきの巨人は噛み砕いていた。三人がまだ生きていたとしたら、実際に三人を殺したのは、あの巨人という事になるのではないか?


 ひとつはっきり理解出来た事は「ここは地獄だ」と言う事だった。

 そうだ。「地獄」に違いない。

 蛍太郎が幼いころに、昔話の絵本で見た地獄の姿とは違うが、それでもここが地獄である事に間違いがないと思った。

「地獄か・・・」

 拳を握り締め、歯ぎしりをする。

「すると、俺はダンテか?ふざけんな!」

 神曲のダンテよろしく、地獄巡りをしなければならないというのか。激しい怒りが込み上げてきた。

 蛍太郎は倒れ伏したまま怒鳴り、見えない地面を殴りつける。地面は見えないが、ちゃんとそこに存在していて、蛍太郎の拳の皮膚が裂けて、血がにじんだ。


 ここが地獄だったとしても、彼らが地獄に落ちなければいけないような罪を犯していたとは、到底思えなかった。

 この理不尽さに狂おしいほどの憎悪を感じる。地獄があり、もし神も存在するならば、この出来事を今すぐなかった事にしてほしかった。更に拳を叩きつけた。新たに皮膚が裂け、拳がズキズキと痛んだ。


 蛍太郎自身は、ダンテの神曲など読んだ事がなかったが、ダンテは最下層で悪魔大王のルシフェルを見たという事は、何となく知っていた。ダンテがルシフェルと遭遇したのならば、それでは蛍太郎は、この先何を見るのだろうか?

 確か、ダンテには案内人が付いていたが、蛍太郎には誰もいない。それは不公平ではないかなどと、皮肉な思いが胸をよぎった。ダンテと重ね合わせても、何の解決も生まないだろう。

無意味なだけだった。

 ただ、力なく起き上がると、坂を下って行く事を考えた。その帰結として、何が待っているのか確かめるために。それが蛍太郎の課せられた役目の様な気がした。




 歩き出すと、周りの景色は、実際に歩いた距離よりもはるかに早く流れ去って行った。五分ほどで地上付近にたどり着いた。

 上空から見たように、荒れ果てた乾いた砂だらけの大地だった。上空から降りてくるときに、かなり遠いところを、タンカー船並みの巨大な、カメの様な化け物がゆっくり歩いているのを見たが、その他には何もいなかった。

 蛍太郎は地獄に階層があるという話を聞いた事があった。その記憶は、神曲にある「地獄の九階層」ではなく、何かのマンガで読んだものだったが、歩きながら、この地獄も何階層かになっているようだと思った。

 今が地獄の何階層にいるのか分からないが、もし、さっきの場所が第一階層だと仮定すれば、これは第二階層目になるのか・・・・・・。さらに下にも階層が続いているのかもしれない。

 そんな事を考えながら、しばらく地上近くを歩いて行くと、再び暗闇に包まれた。

 思ったとおり、さらに下の階層に向かう事になりそうだ。


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