第8話 魔王 11

「なんだ、これ?」

 ルシオールは首を傾げて子犬を見つめる。

 柴犬に似ているが、口元は尖って突き出ており、そこだけ見るとドーベルマンの様でもあった。その犬は、ルシオールにしっぽを振って、遊んでほしいのか、食べ物が欲しいのか、期待した様子ですり寄っていた。

 動物の本能で、ルシオールの正体に気付き恐れる、と言う事がありそうなものだが、子犬は無邪気にはしゃいでいる。

 ルシオールは懐いてくる子犬を嫌がり、蛍太郎の後ろに逃げ込もうとする。しかし、子犬はルシオールについて回る。

「ケータロー」

「大丈夫。遊んでほしいんだよ」

 蛍太郎がルシオールを促しても、ルシオールは子犬から逃げ回っていた。

「これで魔王だなんて信じられないよな」

 蛍太郎は口の中で呟いた。

「この犬はこの館の犬ですか?」

「さあ・・・・・・。ただ、この国には犬が多いので、迷い込んで来たのかもしれませんね」

 リザリエは、子犬を恐れるルシオールの姿に戸惑いつつも答える。

「じゃあ、野良犬かな?」

「そうですね。誰かが所有している犬には、必ず飼い主の名前が入った首輪をする決まりになっていますので、首輪をしていないところを見ると、野良犬ではないかと思います」

 リザリエはやや引きつった表情で子犬を見つめる。

「そっか・・・・・・」


 そう言いながら、蛍太郎はさっきの会談の時に、残ったお菓子を包んでくれた小袋を取り出した。そして、中からクッキーとパンを合わせたような菓子を一つ取りだすと、それを小さく千切って手の中に握り込む。

「よしよし、おいで」

 お菓子の匂いに反応した子犬がしっぽを振って蛍太郎のそばに駆け寄る。

 蛍太郎は、子犬の鼻先にお菓子を握ったげんこつを突きつけ「おすわり」と言いながら手を上に持ち上げ人差し指を立てた。

 すると、子犬はちょこんと行儀よく座った。

 すかさず「よしよし」と言いながらお菓子のかけらを子犬にあげる。

 子犬は嬉しそうにお座りの姿勢のままお菓子を食べ、盛大にしっぽを振った。

 さらに、蛍太郎は「ふせ」と言い、お菓子を握った手を地面につけた。すると、その手に引き寄せられるまま、子犬は地面に腹ばいになった。そして、また蛍太郎は「よしよし」とご褒美をあげる。

 その様子を見ていたリザリエは、驚いた表情でため息をついた。

「すごいですね、ケータロー様。動物を操る魔法でもお持ちですか?」

「え?と、とんでもない。昔うちでも犬を飼ってたし、トレーニングとかしてたので出来るだけです」

「しかし、魔法を使わずにこんな風に、すぐに言う事を聞かせられる人は、わたしは見た事がありません」


 魔法を使う世界は、魔法で大抵の事は出来てしまうので、文化や芸術は発展しても、様々な分野の科学は発展が著しく遅れてしまうのだが、蛍太郎はそうした差異にはまだこの時は気付けなかった。

 ただ、今回の事は、リザリエの認識が間違っている。

 犬や動物を訓練する事はこの世界でもよく行われている。

 特に軍事関係では馬や動物を訓練する事は一般的である。

 ただ、動物の生態について研究して、楽しく、無理なく、遊びながら行うようなトレーニングは一般的ではなかった。

 犬への理解が深くも広くもないこの世界において、しつけは体罰であったり、飼っていく課程において、犬のほうが上下関係を理解し、主人の指示に従うようになる、というものがほとんどだった。


 リザリエが感心している間にも、蛍太郎は特に考える事もなく、ハンカチとして持っていた布を丸めて遠くに投げて、子犬に持って来させる遊びをしていた。

 それですら、リザリエには子犬を操っているように映っていた。

 実のところ、リザリエは犬が苦手で、犬と関わる経験も知識も一般水準を大きく下回っていた。無知故に、よけいに犬を苦手と思い込んでいたのだ。そこへ、蛍太郎のこのトレーニング光景は、まさに目から鱗の感動をリザリエに与えた。


 しかしこの時、リザリエ以上にショックを受けていたのはルシオールだったかもしれない。

「私のお菓子・・・・・・」

珍しく絶句した表情を浮かべると、迎賓館の中に駆け込んでパタンとドアを閉めてしまった。

 そんなルシオールの様子に、蛍太郎は声を上げて笑った。リザリエのルシオールを見る目も、少し和らいだようだった。






 月が・・・・・・、この世界にもある月が青白い光を小さな池に映し出す。

 夜になると急に気温が下がり、肌寒さを感じる。石造りの大きめの邸宅の窓には鎧戸が閉められていた。

 部屋の中からはかすかに明かりが漏れていた。

 話声も漏れていたが、どれも低く潜められていたので、外からは内容までは聞き取れない。室内には数人の男たちがろうそくの薄明かりの中で額を突き合わせて、何事かを話し合っていた。


「あの者は確かに脅威だ。だが、他国に対しての脅威的な武器ともなりうるだろう」

「そうだ、遇して生かさずですね?」

「しかし、我らに扱えるでしょうか?」

「今はなんの力も感じられないのだろう。なら、今のうちに殺してしまった方がよいのでは・・・・・・」

「刺激を与えるわけにはいかんだろう。それこそこの国が消滅してしまうわ」

「あの男の方はどうですかな?あれは何なのだろう?」

「私が見た所では、ただの人間のようだ。害はない。しかし、あの者に対して、どのような役割を果たしているのかは分からぬ」

 灯りの中に浮かび上がったのは、会談に同席した魔導師だった。魔導師キエルア・デュアソール。この国の主席魔導顧問官であり、リザリエの師である。

 主席魔導顧問官というのは、国の宰相に匹敵する権限を持っている。ただし、このグラーダ国には「宰相」の位はないので、事実上のナンバー2である。

「あの男、あの者をコントロールする術を心得ているか、あるいはただの従者か。コントロールする術があったとすれば聞き出したいものだが・・・・・・」

「しかし、あの者をこちらの手中に収めるのに邪魔なだけなら・・・・・・」

「消してしまった方がよかろう」

「それであの者は怒ったりはせんでしょうか?」

「さて・・・・・・。あの者は世事には何の関心も示さんかもしれん。我らとは次元の違う存在だからのう」

 キエルアは、眉間のしわを、さらに深くして考え込む。周りの男たちもしばらくは黙ってその様子を窺う。


「決断を下すには、我々はあまりにもあの者の事を知らぬ。しかし、何らかの方策を早急に取らねばならぬのも事実。王の様に無策のまま構えてなどおれぬでな。私が様子を探ってみよう」

 弟子のリザリエが、彼らの様子をさぐって報告してくる。その中で、どう対応すれば良いのか見えてくるはずだ。

「それは頼もしい」

「さすがはキエルア様だ」

 集まった面々が、賛辞と共に、安堵のため息を付く。


 キエルアも内心ではため息をついていた。ここに集まっている面々は、自らは危険に近づく事はせず、結局はキエルアにばかり頼っているのが明らかだった。


「愚かな事だ」

 キエルアは呟いた。あの者がいる以上、確実に安全な場所など、この世には存在しないのだ。だが、キエルアには野心がある。そのために利用できるならば、あの者をうまく利用すればよい。

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