深淵のルシオール

三木 カイタ

第一巻 金色の少女

第1話 平穏 1


 まただ。

 また聞こえる。

 自分を呼ぶ声が聞こえる。

 その声は、耳から聞こえるのではない。頭の中に直接響くように聞こえていた。

 どこか悲しそうに、淋しそうに・・・・・・。

 そう聞こえるのは、自分の思い込みなのかもしれない。

 そもそも、何と言って呼びかけてくるのかも、よくわかっていない。

 言葉として響いてくるのではなかった。

 「ウワーン」と、無意味な共鳴の様な、耳鳴りの様な音だったかもしれない。

 それでも、それが声だという事が理解できていた。

 その声が自分を呼んでいるように聞こえていた。


 『来て』と・・・・・・。




 ふと気付く。寝ていたわけではない。

 沈み込むようなすわり心地の良い椅子に座り、手には読みかけの小説が、開いたページそのままに収まっている。

 クラシックの曲が流れている。静かなピアノのメロディーが店内を穏やかな雰囲気に演出していた。

 外を見ると、日が大分傾き、西の山に懸かろうかという頃だ。

 この喫茶店の中は、クーラーが効いていて、快適に過ごせているが、外は蒸し暑く、通りを行く人たちは額や脇に汗をかいている様子が見られる。

 蛍太郎を呼ぶ声は止んでいた。



 その声は、以前にも聞いたことがあった。

 まだ蛍太郎が小学生だった頃に何度か。高学年になる頃には聞こえなくなったので、気のせいだと思っていた。

 中学生、高校生になったが、その間全く聞かれることがなく、幼いころに聞いた声のことなど、すっかり忘れてしまっていた。

 しかし、高校三年になり、夏になってから、またその声が聞こえるようになった。聞こえる頻度が増してきており、夏休みに入ってから十回以上は聞いている。

 不快ではなく、怖いとも思わなかった。

 ただ、『来て』と呼びかける声の主が、今どこにいて、どうすればそこに行けるのか。そして、たどり着いた時に、蛍太郎に何を求めるのであろうかと考えていた。


 そう思うのと同時に、すぐに聞こえなくなるその声については、ただの気のせいなのだろうと、あまり気にとめないようにもしていた。

 怪談でもあるまいに、なぜ自分にだけ声が聞こえるのだろうか?

 再び声が聞こえはじめたのは、東京から、ここに引っ越してきたあとからで、環境の変化による精神的なストレス、ということで自分の理性を落ち着けていた。


 では、小学生の頃に声を聞いた時は、何か心理的な変化があったのだろうか?

 妹が出来たばかりだったように思う。それで、何か苦しんだという思いは全くしなかった。親に甘えたい年齢は過ぎていて、赤ん坊ができたおかげで、蛍太郎の事をあれこれと口出ししなくなって、かえって助かったように覚えている。

 付け加えるなら、蛍太郎も妹をとてもかわいがっていた。


 気のせいだな。

 色々あったから、ストレスと言うなら十分溜まっているし、心の深い傷は決して癒される事はないだろうから・・・。

 パタンと小説を閉じると、飲みかけのアイスティーを飲んで、それで気分を変えることにした。

 昼食を家で食べてから、すぐにこの店に来ているので、かれこれ五時間近く居座っている事になる。アイスティーも三杯目になる。




 蛍太郎にとって、最近見つけたこの店が唯一、気が休まる場所だった。


 蛍太郎が、この港町に引っ越して来たのは、つい二か月ほど前の六月の事だった。だから、まだこの辺りになじめていなかった。

 東北だから、訛りがひどいのではと危惧していたが、クラスメイト達は、時々方言を使ったり、イントネーションが違う事もあるが、ほとんど標準語を使っていた。会話の中で方言が出ても、東京の次々出てくる新語よりはよっぽど意味が通じた。

 クラスメイトも、親切にしてくれて、よく遊びにも誘ってくれていた。

 「東京から来た」ということで、多少注目は浴びていた様だが、それだけだ。

 それに、転校して来て、すぐに夏休みに入ってしまった。

 転校してきたばかりの蛍太郎は、夏休みのはじめのうちは、補修などで学校に行っていたが、前に行っていた学校の方が、授業が進んでいるのを確認すると、簡単な補修テストだけして終えてしまっていた。


 恵まれた人的環境だというのに、なじめていないのは、蛍太郎自身に問題があった。

 極力無口でいて、必要以上の事は話そうとしなかった。誰かが話しかけて来ても、そっけない態度で話を切り上げてしまう。食事なども、一人で校舎の脇の花壇に腰かけて食べていた。

 まるで、わざと距離を取っているようだった。いや、実際に距離を取りたかったのだ。

 特に孤独になりたい訳ではなかったが、なんとなく、新しい環境になったからと言って、すぐにはしゃいで、青春を謳歌しようなどという気にはなれなかったのだ。

 自分は許されざる罪を犯しているのだ。

 妹を殺したのだ。


 蛍太郎自身は、自分が妹を殺したのだと思っている。

だが、実際にはそれは不幸な事故だった。





 一昨年の冬の事だった。 


「蛍太郎、ちょっとおつかい行ってきてくれない?」

 バスケ部から帰って来て、ようやく自分の部屋で一息ついたばかりの蛍太郎に、階段の上り口から母親が声を掛ける。

 夕食の材料が一つ足りなかったようで、家のすぐ近くの八百屋に行ってほしいとのことだった。

 部活では、一年生は片付けもやらされて遅くなってしまうし、このところ練習量がハードになってきている。疲れ果てて、というわけではなかったが、しんどい事は確かだった。

 やりかけのゲームの続きも気になっていたし、外は雨も降り出していた。

 「面倒くさい」という一言に尽きた。

 言うなれば、ただそれだけの理由だったのだが、ついイライラしてしまった。

「何で俺が行くんだよ!やる事があるんだから自分で行ってくれよ!」

 ドアを開け、階段下に向かって怒鳴る。

 隣の部屋のドアが開いた。ドアから顔だけ出した妹の「ほたる」は、クルリと蛍太郎の方を向いて、ニコッと笑顔を見せると、部屋から飛び出して階段を下りて行く。

「あたしが行くよ」

 階段の下から、元気な声が聞こえる。

 七歳も年下の妹に気を遣わせてしまった様だと悟ると、蛍太郎は少しばつが悪い思いがした。


 蛍太郎も、渋々ではあったが、部屋を出て階段を下る。

「いや、やっぱ俺が行くよ」

 心配顔の母親と目が合った。ほたるはすっかりおつかいに行く気になって、マフラーを巻いていた。長靴を履こうと、玄関に腰かけていた。

「雨も降っているし危ないぞ。大丈夫なのか?」

「大丈夫、大丈夫。『山本さん』でしょ?」

 ほたるは買ってもらったばかりの水色の傘を、傘立てから引き出すと、嬉しそうに眺めると言った。


 「山本さん」とは、八百屋の名前で、山本八百屋店という。家を出て、道を真っすぐ行き、ほんの百メートルばかり先にある八百屋だ。

 確かに近いのだが、蛍太郎の家の前の小道は、近くの混雑する国道の抜け道として、よく利用されていた。狭い道なのだが、車は気にせず侵入して来て、スピードを出して走って行く事が多いのだ。白線だけ引いてあるが、それをドライバーが気にすることなど無かった。

 更に電柱が立っている所となると、白線内に人が通れるスペースなど無くなる。

 だから、母も蛍太郎も心配になったのだ。


 ここでせめて「じゃあ一緒に行こうか?」と言わなかった事を、蛍太郎はこの後ずっと後悔している。

 母親も心配顔ながら「雨だから気をつけて行くんだよ」と言い、お金を手渡していた。

 すぐ近くだし、まさか自分の家族に何かが起こるだろうなんて事は思いもよらず、心配ではあったものの、蛍太郎は自分の部屋に戻って行ったのである。



 それから、五分後。近所のおばさんが、玄関で金切り声をあげているのが聞こえた。

 何事かと、部屋から出て様子を見に行くと、母親が取り乱したように傘も持たずに外に走り出すところだった。

 蛍太郎も胸騒ぎとともに母の後を追った。おばさんは留守をしてくれるのか、そのまま玄関先から心配顔で見送っていた。

家からまだいくらも行っていない所に人だかりが出来ていた。


 赤いミニバンが道の端にとまって、持ち主らしい男が呆けたように車にもたれかかって、雨に濡れるに任せていた。

 人だかりは、母親の叫び声を聞いて、輪を開いた。

 その輪の中には、誰かの上着を掛けられて横たわったほたるがいた。

 口からは大量に血液が出ていた。一目見て、すでに息絶えているのがわかった。

 ミニバンの下から、グシャグシャにつぶれた、水色の傘がはみ出していた。

 まだ九歳のほたるが、その短い人生を、こんなにもあっけなく、何の前触れもなく終わらせたのだ。


 自分が、つまらない理由でお使いを断ってしまったばかりに。

 何が疲れただ!

 何がゲームがしたかっただ!

 雨だって、今こうして傘もささずに濡れそぼっているじゃないか!

 面倒だったからと言って、妹を送り出してしまった自分が許せなかった。

 事故を起こしたドライバーは、狭い道でスピードを出し、操作ミスをして左に寄り過ぎ、壁にそって白線の中を歩いていたほたるを後ろからそのまま撥ねてしまったのだという。

首の骨は折れ、内臓も破裂。足も粉砕骨折していた。即死だった。

 そんなドライバーへも憎しみは向いたが、それ以上に自分自身を憎悪していた。

 蛍太郎のせいで、ほたるは死んでしまったのだ。


 ほたるはもう元気な明るい笑顔を見せてはくれない。

不器用で、勉強も得意ではなかったが、明るく、家族思いのほたる。

 年の離れた兄である自分を慕っていた、可愛い妹だった。

 買って貰ったばかりの水色の傘を差せる機会を楽しみにしていた。

 だからこそ、雨の中のお使いにも積極的に行きたがったのだ。

 せめて自分が一緒に行っていたら・・・・・・。

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