第2話 崩壊 4
「きゃあ」
短く小さい悲鳴が聞こえた。その声に目を向けると、足場の悪い木の枝の上に立ち尽くしていた久恵が、バランスを崩して、紫に白でメーカー名が縦にプリントされた水着を着たその体を、樹上から滑り落とそうとしていた。
半瞬反応が遅れた多田が慌てて手を伸ばすが、その手は虚しく宙を掴む。
ところが、その時には多田より早く反応していた森田が、自ら崖に飛び込みながら、正に落ちつつある久恵の体を掴むと、多田に向かって投げ上げた。
どうしてそんな事が出来たのかは明らかだった。自分の身を省みなかったのだ。
今度は何とか多田が間に合い、久恵の腕を掴んで、久恵をぶら下げながら木の枝にしがみつく事が出来た。
しかし、森田はそのまま体を落下させていく。
そして、随分下の方で対岸側の岸壁に激突した。ガン、ガンと、何度か激突音がしたが、やがて全ては見えなく、聞こえなくなってしまった。
多田が森田の名を叫んでいたが、感傷に浸る余裕など、今の蛍太郎たちにはなかった。
蛍太郎たちの置かれた状況が、多田たちの状況にさえも、気に掛ける余裕を失わせていた。
無数の黒い手が、蛍太郎たちに掴みかかってきたのだ。
蛍太郎はその手を振り払いつつ、片手で千鶴の腕を掴み逃げ道を探す。
美奈と小夜子の悲鳴がした。
美奈は黒い腕に捕まれはしたものの、何とか振り払えたようだが、小夜子は足を捕まれて地面を引きずられて蛍太郎の目の前を徐々に持ち上げられつつあった。
さらに複数の手が小夜子の体の至る箇所を掴んで空に引き上げようとする。
蛍太郎は千鶴を美奈の方に突き飛ばすと、無我夢中で小夜子を掴んでいる腕に殴りかかった。
何かを考える程のゆとりは、この異常事態にほとんど失われており、無策なままがむしゃらに行動していた。
黒い腕は、霧のように実体を感じさせないが、蛍太郎の拳が当たると、脆く崩れる。
その為、いくつもの腕を振りほどく事が出来たが、それでも小夜子はどんどん持ち上げられて逆さ吊りのような形になってしまった。
小夜子は「助けてぇ!」と叫び続けていたが、パニックのあまり本人はほとんど抵抗もせず引っ張り上げられていく。
蛍太郎は懸命に小夜子の上半身に飛びついた。
逆さ吊り担っている小夜子の腰をがっちりとホールドすると、一緒に引っ張り上げられながら足を激しくバタバタとひねってもがいた。
「山里君!ダメ!」
美奈に腕を捕まれて、山頂から下に降りる道を引っ張られて行くのに抵抗をしながら千鶴が叫んだ。
その声に、小夜子の腹部に顔を埋める形で、細い腰を掴んでいた蛍太郎が下を見た。蛍太郎と小夜子は落雷で出来たクレバスの真上にいた。足下には奈落へと続く暗黒の口が蛍太郎たちを飲み込もうと待ち構えていたのだ。
「あっ」
そう思ったときに、小夜子を掴んでいた最後の手が振りほどかれてしまった。
蛍太郎は、黒い手から小夜子を解き放つという目的は果たしたものの、その結果は「破滅」であった。
「うわあああああ!」
「きゃあああああああ!」
「山里くーーーん!」
蛍太郎と小夜子は、深い裂け目に飲み込まれていく。小夜子が裂け目の半ばまで枝葉を伸ばして倒れかかっている松の木に当たった。
その横を落下していく蛍太郎は、小夜子が何とか枝にしがみつくのが見えた。
多田が落下していく蛍太郎の名を呼ぶ。久恵を引き上げるのにはまだ苦労しているようだった。
空が遠くなっていく。
裂け目の縁に千鶴の顔が見える。泣いているようだ。
空から伸びてきた手に捕まらずに、竜巻や雷からも無事に避難してくれる様に祈った。
空はもうほとんど裂け目に支配されて見えなくなり、やがて完全に闇に飲み込まれてしまった。
闇の懐に抱かれたまま、蛍太郎はどこまでも落ちていった。
頭の中に蛍太郎を呼ぶ、あの声だけが響いていた。
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