第7話 異世界 7
平和な日本の一般的な高校生であれば、こうした状況に出会ったら、まず戸惑ったり、頭だけで考えて状況を理解しようとしていただろう。
ボンヤリ立ち尽くしたり、写真を撮ったり、愛想笑いを浮かべてやり過ごそうとしたりするかも知れない。
異常な状態に慣れていない日本人は、脳が現実である事を受け入れるのに時間を要するらしい。
そして、その為に取り返しのつかない遅滞を招き、悲劇的な結末を迎える事になる。
しかし、地獄をくぐり抜けてきた蛍太郎は、その精神は、ぎりぎりの所で正気を保っていると言えた。それは、ルシオールの存在によるところが大きいと蛍太郎自身、自覚している。
そして、こうした異常な事態において、戸惑う瞬間もなく、一気にゲイルを敵と認識して、激しい憎しみの感情を生じさせた。
躊躇なくゲイルに飛びかかろうとした瞬間、部屋のどこからか「影」のようなものが染み出してきて、蛇のようにゲイルに絡み付いた。
影はゲイルの四肢、胴、首に巻き付き、それぞれをギリギリと締め付けた。蛍太郎は呆気にとられてその様子を立ち尽くして眺めた。影は、強い力でゲイルを宙に固定しつつ、執拗に締め上げていた。手足の骨がギシギシと軋み、折れるか折れないかの寸前で強弱をつけながら締め付けていた。
しかし、ゲイルから絶叫は上がらなかった。
なぜなら、ゲイルの胴を締め上げる影は、肺の空気を絞り出していたし、首に巻き付く影も、顔が紫から、どす黒く変色するまで締め上げて、口から舌が垂れ下がる寸前に、一瞬緩めて呼吸を戻すや、また締め上げる事を繰り返していた。
それは、蛍太郎がまさにゲイルにしてやりたいと、憎しみに駆られて、一瞬にして想像した拷問に他ならなかった。悲鳴さえ上げられない、激しい拷問が、短時間だが凄絶に繰り広げられていた。
蛍太郎が望んだにもかかわらず、こんな残虐行為が目の前で繰り広げられると、激しい嫌悪感が湧いてきた。
ドアの外には、腰を抜かさんばかりに驚き恐怖した人々が、部屋の中の光景を成す術もなく見つめていた。
ゴキッと音がした。ゲイルが口をパクパクさせて、涙、鼻水、涎を吹き飛ばしながら顔をゆがめる。
見ると左足の脛が途中から直角に曲がっていた。それでも影は力を緩めなかった。更に激しく締め上げると、足はビチビチと嫌な音を立てて引きちぎられた。
ドアの外で絶叫が上がる。
逃げ出す者、腰を抜かす者、ただただ見つめるだけの者がいたが、誰一人として、ゲイルを助けようと、室内に踏み込んで来る者はいなかった。
蛍太郎は、ようやく我に返った。とっさに振り返り、ルシオールを見た。黒のドレスに身を包んだルシオールは、無表情でゲイルを見つめていた。影は、ルシオールの背後の闇溜りの様なものから発生していた。
「ルシオール!これはお前の仕業か?」
ルシオールは、視線を蛍太郎に移した。その瞳からは、何の答も感じられなかった。怒りも、恐れも、憎しみもない、無感情な瞳。
「もういい!やめるんだ!」
そう言う蛍太郎を、不思議そうに見つめていた。「やめろ」と言いつつ、蛍太郎の憎しみは、未だに収まる気配はなかった。
その心を読んだのか、影はその先端を尖らせて、ゲイルの左目に突き刺さると、中で鉤状に変化して、眼球をくり抜いた。その光景に、ようやく蛍太郎の憎しみは収まり、同時に、地獄で友達が化け物に食われた様を思い起こして、恐怖と混乱が押し寄せてきた。
「やめろ!やめろぉぉ!」
蛍太郎は、ルシオールにしがみ付いた。
すると、ルシオールは一瞬苦しそうな表情を浮かべると、両手を上に持ち上げた。
「・・・・・・やめられぬ」
ルシオールが呟いた。
その瞬間、世界が閃光に包まれた。音がしたのか、爆風が荒れ狂ったのかも蛍太郎には分からなかった。
目をあけると、四方の壁、天井はすべて吹き飛んでいた。床の部分だけが、空間に固定されているかのように浮いていた。
見ると、周囲数件の家は、皆完全に崩壊していた。爆風で吹き飛ばされたり、崩壊した家に潰されて、瞬時に命を落とした者も大勢いるのは確かだった。
そこかしこに、血まみれで呻き声をあげている者もいる。原形をとどめていない死体も散らばっていた。
ルシオールと蛍太郎だけが無傷だった。
ゲイルは、とても無事には見えないが、命は取り留めていた。
影の拘束を解かれて、宙に浮く床に倒れ込んでいた。
床は、ゆっくりと地面に降り立った。蛍太郎たちの周囲五十メートルは、正に地獄絵図だった。
しかし、それを取り囲む人々は、けが人たちの救出には向かわなかった。
蛍太郎も、周囲の惨状を気にするゆとりはなかった。
皆、一心に天を見上げていた。
空はまるでメスで切り開いたかのように不気味に縦に裂けていた。そして、その裂け目を強引にこじ開けようとして、空に引っ掛かっている巨大な指が八本。こじ開けられようとしている裂け目は、天頂に十数キロは伸びているだろう。
その裂け目の隙間からは、巨大な眼が覗き込んでいた。十数キロの裂け目でさえ、その眼の全体が見えないほどの巨大さであった。
眼の大きさと、指の大きさのバランスが悪く、眼ばかり巨大な何者かであるようだった。いずれにせよ、それを見た人は、恐怖にすべての自由を奪われてしまったように、ただ立ち尽くしていた。
それを見た者の中には、恐怖のあまり発狂してしまった者もいた。
誰かが叫び声を上げた。それを合図に、人々は金縛りを解かれたように動きだした。我先に、どこへと言うわけでもなく逃げ出す者、負傷者を助けようとする者、祈る者、成す術もなく叫び続ける者。蛍太郎は、ルシオールの体を激しくゆすった。
「ルシィ!ルシィ!あれもお前が呼び出したのか?」
「ケータローが望んだ事だ」
ルシオールが答えた。
「やめろ!もういいから。わかったから。もう止めてくれ。あいつを呼びださないでくれ!」
空間が裂けた影響によるものなのか、切れ目周辺には、激しく雷が走り、いくつも地上に突き刺さっていた。町にも雷による被害が出ていた。
これが蛍太郎の望んでいた事なのだろうか?地獄での体験から、蛍太郎の憎しみは狂気寸前にまで増大されていた。その過剰な憎しみの爆発の瞬間には、確かにすべての破壊をイメージしていた。それが現実に目の前に起こった、起こりつつある事に、蛍太郎は恐怖した。
その恐怖は、目の前の惨状によるものでも、巨大な化け物によるものでもなかった。まして、雪のような肌に、宝石のような瞳を持つ少女にでもなかった。自分自身の激しい負の心に対してである。
「だとしても、もう充分だ。俺が悪かった!やめてくれ。こんな事はしちゃいけないんだ!」
蛍太郎は涙を流して、ルシオールを揺さぶる。
「俺が望んだ事だとしても、ルシィがこんなひどい事をしてはいけない!」
ルシオールは不思議そうに蛍太郎を見つめたが、やがて頷くと、手を上げて振った。
空の裂け目が閉じてゆく。天を引き裂こうとする巨大な指は、尚も空間をこじ開けようと力を入れていたが、抵抗もむなしく裂け目は閉じられた。閉じる瞬間、巨大な目は、恨めしそうに蛍太郎を見下ろしていたような気がした。
裂け目が閉じると、荒れ狂っていた雷も収まった。代わりに、強い風が吹き荒れてきた。たちまち雷雲を蹴散らし、雲ひとつない夜空が戻る。世界の崩壊はひとまず回避されたようだった。
「ルシィ。ルシオール。ごめん。ごめん」
蛍太郎は、ルシオールをしっかりと抱きしめると呟いた。ルシオールは無表情で、小首を傾げて訊ねる。
「ルシィとはなんだ?」
蛍太郎はそれには答えなかった。
「ルシィ。怪我はないか?痛いところは?」
ゲイルが返り血にまみれていた事を思い出して、慌ててルシオールの手足を確認する。着ているドレスも不思議だったが、今は詮索している余裕はなかった。
「ケータロー。眠い」
周囲の地獄絵図や、蛍太郎の焦りを気にする事もなく、ルシオールは欠伸をした。
「こ、ここを離れなくっちゃ」
蛍太郎は辺りを見回すと、無事な人々の中に、遠巻きにこちらを窺っている者が少なくない事に気付いた。
この惨状の中、無傷な二人は、どう見ても異常だった。人々の疑心を浴びるのは、どう考えてもまずかった。蛍太郎は、ルシオールの手を取り、人の少ない方へ走り出そうとした。
その時、正面から現れた兵士の一団に、あっという間もなく取り囲まれてしまった。
兵士たちは手に長い槍を持ち、その後ろには、弓にすでに矢をつがえた兵士の一団もいた。
「動くな!」
兵士は鋭く蛍太郎に命じた。蛍太郎はルシオールを後ろにかばうようにしたが、周囲をすっかり槍に囲まれており、キョロキョロと見回す事しか出来なかった。とっさに見まわしただけで、五十人はいるだろう。
「貴様らは何者だ!」
そう問いながら、兵士たちの槍は、さらに輪を縮めてきた。
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