第3話 地獄 6
千鶴は、震える足でようやく立ち上がると、化け物に背を向けて走り出した。蛍太郎に触れんばかりのところにたどり着いた時、千鶴の眼が見開かれた。
蛍太郎の体と正面からぶつかり、なんの抵抗もなく蛍太郎の中をすり抜けていった。
振り返り見た千鶴の背には赤い翼が生えていた。化け物の、爪のはえた細長い触手が、上着と水着ごと千鶴の背中を引き裂いていた。千鶴は背中から大量の血を吹き上げながら、地面に倒れこむ。
「きゃあああああ!」
「うわあああああ!」
絶叫がこだまする。その叫びは、蛍太郎の叫びと重なっていた。
千鶴は、地面に倒れ込みながらも、何とか逃れようと、上体を起こして地面を這う。
「いやああ・・・。山里君、山里君。助けて、山里君」
弱弱しく、うわ言の様に繰り返す。そんな千鶴に化け物の触手が襲い来る。
千鶴の太腿に触手が巻きつくと、地面を引きずって、本体のほうに引き寄せていく。
化け物の形が変わる。ドリルのような体全体が先端から四枚に開いていく。開くと、真ん中にはぽっかり空洞があり、触手はその空洞の中から伸びていた。開いた一枚一枚の花弁にはビッシリと細かい針の様な歯が生えていた。
真ん中の空洞から、さらに触手が伸びてきて、千鶴の胴をからめ捕り、持ち上げた。そしてそのまま花弁の中央に導くと、ゆっくりと花弁を絞り込むように閉じて行く。
千鶴のこの世ならざる叫び声が耳を突き破る。
朝顔のつぼみの様に、ぴったりと閉ざされた花弁の先端から、千鶴の頭だけが出ていた。花弁にビッシリと生えた針が、千鶴の体に突き刺さっているのだと思うと、蛍太郎は気も狂わんばかりだった。
千鶴は耐え難い痛みを味わいながら、まだ生きていた。
「山里君!助けて!」
と、絶叫の合間に、まだそう繰り返していた。
花弁は、時々震え、そのたびにゆっくりと締め上げているようだった。千鶴の体液を絞りつくそうとしているかのようだ。
その時、さっきのクジラの様な化け物が、突然押し寄せて来て、まだ生きている千鶴ごと、ドリルのような化け物を飲み込んでしまった。
小夜子を片腕だけ残して食べつくした化け物も、川辺の腹をむさぼっていた化け物も、それに気付くと叫び声を上げ、あわててどこかへ姿を消してしまった。
クジラの化け物を残して、他は誰もいなくなった。
蛍太郎は、地面に力なく膝をついた。
蛍太郎には、わけがわからなかった。ただ、もう蛍太郎以外は誰一人としていなくなってしまった事だけがわかった。とても受け入れがたい事だが、それが現実だった。
多田も、千鶴も、小夜子もみな死んでしまった。許されざる地獄の惨劇の中で、無残な最期を遂げていた。突然に、理不尽に、恐怖と苦痛にまみれて、その若い命を落としたのだ。
千鶴の控え目で、それでも男心をくすぐる愛らしい笑顔を、もう見る事はできない。
どんなに距離を置こうとしても、遠慮なく話しかけて来て、徐々に蛍太郎の心を取り戻してくれた多田たち。彼らとも、もう会う事は出来ない。
東京に憧れて、蛍太郎の話を一心に聞いていた結衣と夏帆は、どうなってしまったのかわからない。しかし、到底無事に済むなどという事はないだろう。
中学の時から千鶴を気にしていたという川辺は、千鶴が蛍太郎を好きになっているという事を、今日気付かされた。それでも蛍太郎を悪く言ったりせず、仲間として見てくれた。
元気で活発な久恵は、屈託なく、クラスでもよく蛍太郎に話しかけて来てくれた。
千鶴の保護者を気取って、周りの男子たちに目を光らせていたという美奈は、蛍太郎との仲を取り持とうと、強引に接近させては千鶴を後押しして来た。
皆、それぞれの人生を生きてきたし、それぞれの夢を持っていたことだろう。高校を卒業して、就職する者、進学する者。恋をしていた者、夢に向かって努力を重ねて来ていた者もいただろう。
なぜ、彼らが、こんな現実とも思えないような惨劇に見舞われなくてはならなかったのか。雷や竜巻では、さらに大勢の人たちが死んでいったに違いない。蛍太郎の両親とて、どうなったか分からない。
そんな中、なぜ自分だけが安全な所にいて、何も出来ないまま、そんな惨劇を傍観していなくてはならなかったのか。
安全地帯にいる自分に、虚しさと無力さを感じる反面、どこかでホッとしている自分が許せなかった。
悔しくて、悲しくて、この苦しさから解放してほしかった。速やかで、苦痛のない死が提供されるなら、飛びつきたい心境だった。
同時に、安楽な死に逃げようとする自分も、苦痛に満ちた死を迎えた仲間たちを思うと、情けなく思えた。
マイナスの悪循環だったが、この状況の中では仕方がない事だといえるだろう。発狂しない方が不思議だったかもしれない。
蛍太郎は一人、この安全地帯に残され、力なく項垂れていた。
安全?果たしてそうだろうか。
今は化け物たちに気付かれず、触れられない不可思議な空間にいるが、この先さらなる惨劇が蛍太郎を待っていないとは限らないではないか。
こうして見続ける事自体が、地獄ともいえた。発狂したくとも正気で、この狂気を目撃しなければならなかったのだ。
こみあげてくる吐き気に、身をよじって嘔吐した。
涙も止まらず流れ落ちる。
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