第4話 邂逅 1

 蛍太郎は、青空のもと、空中で静止していた。

 あの、すさまじい速さで進むのは、止まっていた。

 空は一面、抜けるような青空だ。

 赤黒い不吉な光を、ぼんやりと放っていた靄は全くない。

 しかし、その青空は人工的な不自然さが感じられた。青空の高さが感じられなかった。まるで天井に青空の写真を張り付けたかのようだった。

 雲もなく、爽やかな光が降り注いでいるにもかかわらず、光の源である太陽がなかった。

 そして、地面はとても近かった。地面はすぐそこで、大きな木が、蛍太郎のすぐ足下に梢をさらしていた。

 木の隙間から見える地面は、短い草に覆われていた。鮮やかな黄緑色は、ゴルフ場などで見る芝生のようだった。

 さらに、この階層には壁が存在しており、地面から垂直な岩壁が、不自然な青空まで達し、まるでその壁の頂点が、天の最高到達点であるかのようにまっすぐに切れていた。

 そこから地面と平行に、青空のペイントがされた天井があるように思えた。壁は四方に真っ直ぐ伸びてそびえ立っており、青空を天井とするなら、この階層は直方体を形作っていた。


 広さとして、よく比較対象とされる東京ドームだが、ここは正に東京ドーム一個分の広さと表現する事ができた。

 東京ドームと比較する行為は、その比較対象によって、大きくも、小さくも感じるものだが、この階層を表すならば、東京ドーム一個という単位は、極端に狭く小さな空間だと言う表現になる。

 

 これまでの階層は、明らかに下に行くほど広くなっていた。この一つ上の階層は、横には無限に広がりがあるのではと思わせるほどだった。縦へも、果てしないほどの高さがあったように思える。少なくとも、大気圏外から地球の地表までの高さでも、全力で走った最後の十数秒程度の距離だったように感じていた。

 蛍太郎の直感では、ここが最終階層だとの確信があった。にもかかわらず、その階層がここまで小さいと、いささか拍子抜けしてしまう。



 改めて、この階層の様子を窺ってみた。

 地面は草木に覆われている。

 狭い世界ながら、どこから来ているのか、小川がチョロチョロと流れている。

 生えている木はモミの木だけのようで、奥の壁から半ばまでを密集して立ち並んでいた。

 地面のもう半分には、芝生の様な青々とした草が生え、所々に白い花が咲いており、のどかな草原を思わせた。

 小川は、四角い大地を対角に横切るように流れていた。

 それだけでも、これまでの殺伐とした、不吉な雰囲気とはかけ離れて、どこかメルヘンチックな感じさえ抱かせる景色だった。

 さらにそれを決定付ける、この景色にはピッタリながら、今までの地獄の世界からは想像もつかないようなものが、この世界の真ん中にあった。

 小さな山小屋だった。

 赤い屋根に、小さな窓が二つ。正面についたアーチ型のドアに続く小さな階段。

 ご丁寧に、煙こそ出ていなかったが、煙突まで付いていた。

 小鳥や小鹿がダンスでもしていれば、完全にメルヘンな世界だった。

 蛍太郎は、呆気にとられつつ、もしやあの小屋はお菓子で出来ていたりするかな?などと考えてしまった。


 あまりにも景色が変わってしまったので、にわかに信じ難く、ただ呆然と立ち尽くしてしまったが、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。

 まるで箱庭のようなこの世界だが、ここに蛍太郎を導いた何かがいるような気がする。


 蛍太郎は、気を取り直して、足を動かし始めた。すぐにモミの木の樹林に吸い込まれ、やわらかな下草の生えた地面に降り立った。やはりこの階層が終着点で、再び暗闇のトンネルに飲み込まれる事はなかった。

 美しい世界だったが、何か妙な白々しいほどの違和感があった。

 もちろん直方体の世界など不自然極まりないものだが、この景色に足りないものがあるように思えた。

 メルヘンであるなら、メルヘンであるほどに、当然備わっているであろうと思われるものだ。だが、それが何なのか、よく分からなかった。ただ「足りない」と感じたのだ。

 降り立った地面は、モミの樹林の中で、すぐ近くを小川が流れていた。

 この流れに沿って行けば、あの小屋の裏手に出る事になる。

おそらく、そこに蛍太郎を呼ぶ者が待っているのだろうという事が理解できた。

 蛍太郎は手探りしてみたが、蛍太郎を捕らえていたあの見えないトンネルはもう存在していなかった。つまり、この狭い直方体の空間の中では蛍太郎は自由を手に入れたのだ。もっとも、入れ物が変わっただけの限定的自由でしかなかったが・・・。



 歩き出す前に、蛍太郎は小川に手を入れてみる。

 川の水は、とても澄んでいて、冷たかった。地面を叩いて傷ついた拳が、ジンジンと沁みて痛かった。

 その手で水をすくい上げて口元に持って行く。そこで、その手を止めた。この水は飲めるのだろうか?

 泣き叫び、嘔吐して、ずいぶんな距離を走った蛍太郎の喉は、すっかりヒリヒリして渇ききっていた。

 まるっきりメルヘンなこの景色に惑わされてしまいそうになるが、ここは地獄の最下層だ。そんな所の水が飲めるのだろうか?

 空を仰ぎ見る。頭を巡らし、耳を澄ませてみる。そしてようやく、この世界に足りないものの存在に気付いた。

 この世界には、鳥も動物も、魚も虫も存在していない。鳴き声はおろか、何か生き物がいるという気配が全くなかった。

 風もなく、葉が風にそよいで、互いに触れ合って流れる森の息づかいも感じられない。空はただ青いばかりで雲も流れていなかった。木々も土も、そこにしっかり存在しているのに、生きている気配が感じられない。微生物も存在していないのではないだろうか?

 そう、ここはまるで、映画か何かのセットだ。よく出来てはいても、偽物なのだ。それこそ、本当に何者かが意図して作り上げた箱庭でしかないのだ。


 それでも、蛍太郎の喉の渇きは本物で、胃の奥から絞るような痛みもあった。

 蛍太郎は、意を決すると、顔を流れの中に突っ込んで、そのまま水をガブガブと飲んだ。

 その水は、見た目通りに清らかで、体の奥まで染み込むような透き通った味がして、蛍太郎の渇きを癒してくれた。飲んだ後も、特に体に変化なく、心配したような毒性はないようだった。微生物も不純物も混じっていなくても、水は蛍太郎の望む水の役割を果たした。


 安心した蛍太郎は、ゆっくりと服を脱ぎはじめた。そして、全部脱ぐと、膝までの深さしかない小川の中に入り、体を洗いはじめた。

 蛍太郎たちが、夏休み後半の、青春のひと時を過ごした、あの大島の海岸と比べると、ここは温かく過ごしやすい気候でこそあるが、とても水浴びを楽しめるような気温ではなかった。

加えて、小川の水はとても冷たく、水を体にかけるたびに震えが走った。腕には鳥肌も立ってきていた。

 蛍太郎の体は泥や血、自分が吐き出したものなどで、かなり汚れていたし、泣き叫んだり、暴れたり、走ったりしてきたことで、クタクタに疲れ切っていた。

 

 しかし、ここで水浴びを始めたのは、それに耐えられなくなったからではなかった。

 自分を呼びつけ、凄惨な地獄絵図を目撃させた声の主に、真っ直ぐに会いに行くのがなんとなく癪だったのだ。子どもじみていて、無意味だとわかっているが、それは、蛍太郎にできる僅かな反抗であった。

 そして、そんな反抗が、何ら事態の好転にはつながらず、自分の知りたいという欲求からも反している事には、蛍太郎自身気づいていた。

 蛍太郎は知りたかったのだ。自分を呼び続け、保護してきたものの正体を。そして自分の役割を。それを果たした後の自分の運命を。


 体を洗い清めて行くうちに、なんだか気持ちが落ち着いてくるのを感じた。

 ずっと頭は混乱し、友達の身に起こった惨劇に、心が張り裂けそうだった。地獄の化け物を呪詛し、生き残った自分に、たまらない後ろめたさを感じていた。恐怖と絶望が蛍太郎の心臓を鷲掴みにしていた。

 そうした気持ちが少しだけ収まって行くようだった。


 すると、蛍太郎の身を、別次元のトンネルにより守ってくれたであろう、声の主には恩義さえ感じていいのだという気がしてきた。蛍太郎には、果たさなければならない勤めがあるのだ。


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