第1話 初夏 10

 山里は後ろの方の席なので、千鶴は山里の顔を見る事が出来ないが、千鶴の正面に座っている今の美奈には、山里の席がよく見えている。

「お、今日はもう帰るみたいだよ。よかったね。もう委員長との勉強会はないみたいだね」

 それを聞くと本当に安心した。山里にもらった黄色い花柄のハンカチをポケットから取り出して顔をうずめる。自分で洗濯したので、自分の服と同じ匂いしかしないのに、思わず深く息を吸い込んで嗅いでしまう。顔がほころぶ。

「くっそう!千鶴、ほんとにかわいいな!」

 嬉しそうでいて、どこか忌々しそうに千鶴の表情の変化を見ながら美奈が千鶴の頭をなでる。

 美奈に頭を撫でられるのは好きだった。自分が美奈に甘えっぱなしなのがわかるが、甘えている事が素直に心地よかった。

 美奈にしても、甘やかす事がすごく心地よかった。山里に取られると思うと、なんとも悔しく寂しい気もするが、千鶴が幸せそうに笑っているのを見ると、そんな笑顔をもっと見たくなってしまう。


「でも、確かに時間がないね。これはマジで動かなきゃだ」

 美奈は千鶴の為にいろいろ情報を集め始めていた。だが、もっと積極的なアプローチをしていかなければ、山里を知る事も出来そうもなかった。

「多田トラ!」

 美奈は突然男子生徒の多田に声をかけた。

「お?何だい、姉さん」

 複数の男子と「赤点」がどうのこうのと話していた多田が、振り向いて返事をする。

 もちろん、美奈は多田の姉ではないが、さばさばした性格と、物怖じしない態度なので、複数の生徒に「姉さん」と呼ばれていた。いわゆるあだ名である。多田の「多田トラ」も一部生徒間で使われているあだ名だ。

「今日も山里君に声かけたの?」

「おお。かけたかけた。でもまた振られちゃったよ」

 多田は嫌味なく笑って頭をかく。

「それは残念だったね。で、今日はなんだって?」

 美奈が尋ねると、珍しく一瞬表情をしかめてから多田が答えた。

「なんか病院行くんだってさ。あいつどっか具合でも悪いのかな?」

 美奈は少し考え込む。千鶴に聞いた話からすると、もしかしたら心理カウンセラーでも受けに行くのかもしれない。

「ま、余計な詮索はいけないね」

 多田が頭を振って言う。

「そうね。多田トラっていい奴だよね」

 素直に感心して美奈が言うと、周りの男子もうなずく。

「お、おいおい!ほめても何も出ないぜ。あ、ガムあった。おひとついかが?」

 離れた席で様子を窺っていた千鶴が思わず吹き出す。

 千鶴は、多田が時々こうしたくだらない冗談を言うのが妙にツボらしく、密かに反応してしまう。

 これには本人も困っていて、ふと思い出して吹き出す事があるのだ。


「いや。ガムはいらないけど、山里君の事って何か聞いてない?」

 千鶴の反応には気付かず、ガムをポケットにしまって多田が首をかしげる。

「ん?まあ、聞いてる事は多少あるけどね・・・・・・。まさか姉さんまで山里ファン?」

 美奈は一瞬目を見開いた。それから、一瞬だけ考えると、平然と答えた。

「そうだよ。かっこいいよね」

 周囲の男子はおろか、女子からも驚きの声が上がった。

「マジで?」「あの川島さんが?」「ショック」などなど。

「まあ、ファンってほどじゃないけど、同じクラスなんだし、やっぱり仲良くはなりたいでしょ?色々知りたいじゃない」

 美奈がやや訂正したので、場の空気がひとまず落ち着いた。

「なんだよ。せっかく田中さんへのガードが薄くなると思ったのに」

 陸上部の川辺が言うと、複数の男子がうなずいた。一斉に視線が千鶴に集まる。千鶴はニッコリ微笑みを返す。みんなも笑顔で手を振ってくる。

「いや、千鶴はあげられないよ。残念でした」

 美奈がバッサリ男子を切り捨てた。男子の大げさなため息。

「で、なんか聞いてる?」

「ああ。あいつんちの大体の場所知ってるな。意外と俺んちの近く。あと、前はバスケ部だったらしい。なんか途中でやめたらしいんだけど、中学の時はスタメンだったらしい」

「うちの高校レベルだと、普通に今もスタメン入れそうだよな」

 多田同様、帰宅部の藤原が合いの手を入れる。

「ああ。そういえば、進路は専門学校らしい。美容師になるとか言ってたな」

 多田から得られた情報はこんなものだった。とぼけてはいるが、どうも多田も山里の情報を知っているようだったので、それ以上の回答を避けている様に感じる。

「ありがと。これからもしっかり声をかけて、山里君をうちのクラスに、早くなじませてあげるようにね」

「アイアイサー!」

 多田がふざけて敬礼を返す。

「なんかあったらあたしにも教えてね」

 千鶴の方に戻りながらそう言い添えた。多田は手を振って応えた。

「まあ、こんなところかな?明日からは本人にも話しかけてみようかな」

 千鶴は真剣にうなずく。後ろの席で、その様子を小夜子がじっと見ていた。




 美奈が感じたように、多田は山里の事情を、かなり詳しく知っていた。

 山里が転入して来る前に、担任に呼び出された時に知らされたのだ。

 本来なら、個人的な事情など、他の生徒に話して良い物ではなかったが、この担任は面倒な事はしたくない態度を、一貫して行動で現している。

 そこで、多田に、クラスになじめるようにして貰うべく、事情を話して丸投げしたのだ。

 

 多田は転入してくる山里という男に酷く同情した。多田にも弟も妹もいる。それだけに、人事ではない思いがしたのだ。

 だから、山里の心の傷を癒やすべく、孤立させないように、一生懸命声を掛け続けてきたのだ。

 一時、男子間で「気にくわない奴」と言う雰囲気が流れたが、多田と、その多田の必死さに何かを感じた藤原との二人で、必死に説得した。

 そうした二人のおかげで、山里はトラブルから未然に守られていたのだ。


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