第11話 自由 1

 それは全くの偶然だった。

 足に何かが当り、カラカラと転がった。それは小さな石片で、壁の一部が欠けて転がった物だったが、その正体を確認しようと、蛍太郎は反射的に少し下を向いた。

 その動作が剣を握る手を下げ、腰も少し前かがみになった。柄に鈍い手ごたえとともに「ムグッ」と押し殺したうめき声が、すぐ背後からした。

「えっ!?」

 あわてて振り返ると、そこに一人の男がいた。黒衣の男だ。手には鋭いナイフが握られていた。

 空いた手は左の足の付け根を押さえており、その表情は苦痛と驚愕に歪んで目を剥きだしていた。足を抑える手からは血が滲んでいた。蛍太郎は、その男が自分のせいで怪我をしたのだと悟った。

 だが、同時に、この男に対する激しい警戒心が生まれた。蛍太郎は戸惑いながらも、練習用の剣を構えると後退った。男の眼は、驚愕から怒りへとその色を変えた。

 


 男にとって、何が起こったのか瞬時には理解できなかった。カラカラと言う音がした瞬間、男も一瞬動きが止まってしまった。その刹那、下腹部に激しい痛みが生じた。

 叫び声を押し殺したが、とっさに声が漏れてしまった。

 標的が振り返って剣を構えた。

 何故剣を持っているのか?練習場から剣を持ち出す事は罰せられるというのに。

 左足の付け根を負傷してしまった。傷は深くないが場所が悪い。激しい痛みでうまく足を動かす事は出来そうもなかった。相手はすっかり警戒してしまっている以上、暗殺は失敗してしまう。失敗したら自分の命はない。やるしかないのだ。


 男は、一切口をきく事なく、いきなりナイフで切りつけてきた。激しい殺意が全身を包んでいる。

 蛍太郎は確信した。この男は暗殺者だ。標的は自分。

 依頼主は誰だ?

 答えはすぐに出た。あの警戒すべき人物、主席魔導顧問官キエルアだ。その推測が外れていてもかまう事はない。もともと好意を抱くべき相手ではなかったのだ。


「うわあああああっっ!!」

 蛍太郎はがむしゃらに剣を振るった。剣はすべて空を切ったが、追い足に欠ける暗殺者をいったん退ける事には成功した。

 このまま走って逃げようかとも思ったが、暗殺者から狙われる事がそれで終わるとは限らない。この男を捕まえて、一切を白状させ、国王に処断を任せるべきか。

 などと言う事はほとんど考える間もなく、蛍太郎の心は激しい憎悪に満たされてしまった。自分が人殺しをするかもしれないという、恐怖や嫌悪を感じる暇さえありはしなかった。


「この野郎!」

 叫ぶと、猛然と突きかかって行った。初撃はあっさり弾かれてしまった。弾いたナイフで暗殺者が蛍太郎の首を狙う。

 ここでも、偶然が蛍太郎を助けてくれた。ついさっき、ジーンと練習していた動きを体が覚えていたのだ。

 剣が弾かれるままの勢いで反転して首を逸らし、ナイフの一撃をギリギリで躱すと、今度は回転の勢いを生かして剣を突き込んだ。

「ふぐぅ!!」

 剣はナイフを振りぬいた格好の暗殺者の、右脇腹に突き刺さった。ジーンとの練習後でなければ、蛍太郎には絶対出来なかった動きだ。

 これが練習用の剣でなかったら、切っ先が体を貫通していたかもしれない。剣先はわき腹にその切っ先を埋めるにとどまったが、衝撃で男がよろけて後ろの壁に激突した。

 足と、脇腹から血を流しながらも、暗殺者の目からは蛍太郎への殺意が溢れていた。


 その姿に、蛍太郎はさらに憎悪を爆発させた。景色がゆがみ、色がにじむ程の激しい怒りと憎しみ。目の前にいるこの男を、もはや人間とさえ認識していなかった。

 手足を引きちぎり、腸をえぐり出してさえ殺さず、その激痛にのたうち回らせたかった。激しく醜い憎悪に満たされた頭の隅っこでは「やめろ」と、か細い理性の声が叫んでいるのがはるか遠くで聞こえた気がした。

 この憎悪と憤怒こそが、蛍太郎が地獄を潜り抜けた時の傷痕だった。

 地獄の恐怖が、友人を目の前で喰われた時の憎しみが、蛍太郎の心を酷く、歪に傷つけていた。

 ルシオールといる事で、普段は平温に、冷静に過ごせているが、蛍太郎の心はすっかり壊れていたのだ。それが、ゲイルの時同様、こうした場面で表面化する。




 男も蛍太郎も武器を構えた。


 その瞬間だった。

 

 全てを白く照らす光が最初だった。

 次に激震。

 そして爆音。

 

 暗殺者も蛍太郎も床に倒れ込んだ。叫ぶ間もない。

 揺れは一瞬だった。光に目が眩み、爆音に耳鳴りがして頭も痛い。

 しかし、すぐに立ち上がると、暗殺者を確認する。相手もよろめき、傷の痛みに呻きながらも立ちあがっていた。そして、すぐにナイフを構えた。

 蛍太郎は、暗殺者の背後の空間が、ぼんやりと光っているのに気が付いた。

 ぼんやりとした光は、空間の裂け目だった。

 そして、その裂け目がはっきり輪郭を現すと、音もなく円形に開いた。

 次の瞬間、毛むくじゃらで太く長い腕が突出し、背後から暗殺者の頭を捕らえた。

 暗殺者は何が起こったのか分からぬまま「ひい」と叫ぶと、すさまじい力で首をねじ切られてしまった。

「なっ!?」

 蛍太郎は唖然とし、床に崩折れる、首のない暗殺者の体を見つめる。

 腕が光る空間に戻って行く。そして、空間のひずみの中からボリボリと嫌な音がした。ねじ切った頭を、大きな化け物が食べているのだと蛍太郎にはすぐに分かった。


 蛍太郎の目の前の空間は、地獄と繋がっていた。

 地獄の魔物が地上に現れるのだ。

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