第1話 狂気の兆し 3

同じ頃、冷たい石造りの室内では、知性的な声と、やや病的なうめき声がその室内の静謐さを濁していた。

 室内には2人の人物がいた。

 知性的な声は低く、静かに、そして巧みに、病的なうめき声を増幅させるのに成功していた。

 それはそれほど困難な仕事ではなかった。

 病的な声を発する人物が望む事を囁くだけで良かったのだ。

 

 うめき声を発する男は、その男の虚栄と退廃的、刹那的快楽主義者である内面を、醜く太った体で見事に体現していた。

 その男の先祖から引き継いだ地位と権限で、何一つ苦労をする事もなく、この世の快楽を欲しいままにしてきたのだ。

 少しでも気に障るものがあれば抹消したり、遠ざけたりする事が可能な地位にあり、欲しいものがあれば手に入る。

 しかし、そんな男でも膝を屈しなければならず、手に入らない地位がある。


「・・・・・・そうすれば、あなたは今よりもっと強大な地位を手に入れる事が可能なのです。何もそれは、このグレンネック一国のみに留まる事はなく、歴史上最高の権力を手に入れた、唯一の存在となれるのです」

 知性に満ちた声は、その知性を暗黒面に特化させて、まじないのように言葉を発した。

「ううう。ワシが・・・・・・ワシこそが・・・・・・」

 うめき声は思い悩む響きから、自らの暗い願望が現実になったような錯覚を起こした陶酔の響きが強まってきている。

 知性ある声は、ただ男の斜め後ろから低い声で囁いているだけである。魔法など使っていない。

 しかしその実、この男は魔法に長けている。

 優れた魔法の能力があるからこそ、わずか数日で権力者の傍らに立つ事が出来たのだ。

 

 元グラーダ国主席魔道顧問官キエルア。

 グラーダ国で反逆罪に問われ、グラーダ国を脱してすぐにグレンネック国に向かい、「主席魔導顧問官」の肩書きによってグレンネック国の名門公爵家に入り込む事が出来たのである。

 事実、キエルアは優秀な人材であったため、肩書き以上の働きをして、あっという間に公爵の信頼を勝ち得てしまった。

 キエルアは野心家であり、身の安全を確保するだけでは満たされる事などなかった。グラーダ国で国王に対して行うつもりだった計画を、そのままこの公爵家に置き換えて実行する事にしたのである。

 無論、前回の轍は踏まないように修正を加えた上での事だ。


 キエルアが妄想に耽る公爵に囁く。

「・・・・・・その為にも、彼らをグレンネックに入れる前に事を為してしまう必要があります」

「そうだ。事は急がなければ・・・・・・」

 キエルアが利用し尽くす道具に定められた、ノールディアス・エストゥル・アズロイル公爵はうめくように言うと、近侍をを呼ぶ為のベルに慌てて手を伸ばす。

 そして、神経質な手つきでベルをかき鳴らした。すぐに現れた近侍に甲高い声で命令する。

 グレンネックの貴族は、甲高い声を出すのが優雅とされている。

「急ぎ、金髪の小娘を捕らえるのだ!グレンネックに入る前に共の者たちと引き離せ!」

 近侍のものは困惑顔で、最近入った魔道顧問官の顔を見る。

 キエルアが頷いたので、後で細かい指示がもらえる事を確信して「承知しました」と答える事が出来た。

 

 その体同様、アズロイル公爵の自意識は肥大しており、自分の命じたい事柄は、聞く者はその細部まで理解、把握して適切に執り行うのが決まっていると思い込んでいるのだ。

 その一方で、知られたくない事は、どんな事でも秘密にしておけるとも思っている。

 だから、自分の思い通りに事が進まない時は、すべてを他人のせいにして怒りをぶつける事が出来た。

 少しも自分自身に落ち度があったとは思っていないのだ。

 まるでわがまま放題の幼児であるが、その要求するところが幼児のレベルを遙かに超えているから救いがたい。

 

 キエルアとしてはそんな精神状態の権力者であるからこそ扱いやすいのである。

 精神魔法は、主席魔導顧問官の自分にふさわしくない邪道で低俗な魔法である。だから、そんな魔法を使うまでもなく、本人が見る愚かな幻想を、そのまま拡大して、成功する事のみ確定したかのように語ればいいのだ。

 万一失敗したとしても、その時は古くなった道具を捨てればいいだけである。

 元より、捨てる事が確定している道具なのだから、惜しくも何ともないのである。

 キエルアの狙いは、この醜く愚かな公爵の権力と財力を使って、「深淵の魔王」を手に入れる事である。

 それが成れば、もはや一国の公爵などどうでも良い。

 あの魔王を有効に利用できるのは自分だけである。


「公爵閣下には、この後に上り詰める、人類史上最も偉大な地位の『尊称』について、思いを巡らせていただかないといけませんなぁ」

 キエルアの退室間際の一言が、アズロイル公爵を更なる夢想と陶酔の世界に送り込んだ。




 キエルアが退室すると、先刻の近侍の者が待っていた。早速近侍を伴って、キエルアの執務室に移動した。

さらうのは金髪の娘だけだ。他の者と引き離す事が重要なのだ。それと、その娘を傷つける行為は絶対にしてはいけない。その娘はもちろん、供にいる者もだ。特に一緒にいるであろう男には、だ。誰にも気づかれる事なく掠う事が望ましい。娘を手に入れたら、丁重にもてなし『野薔薇館ヒスリースベルン』に招待するのだ。食事や特に甘い菓子を用意し、常に娘を満足させてやらねばならん。そうだ、『野薔薇館ヒスリースベルン』には風呂がない。娘が到着するまでに作れ。それと、若い男と、女に世話をさせる。・・・・・・まあ、それはこちらで手配する。詳細はこれに記してある。目を通したら処分しろ。以上だ。・・・・・・ああ、あと子ども用の寝心地の良いベッドもあった方が良いな・・・・・・」

 一方的な発言の後に、意外な厚みを持った書簡を机越しに放り投げてよこしつつ、キエルアが面倒そうに付け加えた。むろん手配するのはキエルアではない。

「娘の居所は我が弟子たちが探索魔法を使って追跡しておる。程なく位置が知れよう」

 執務室でキエルアが段取りを伝える。

 近侍の者は、長く公爵家に仕えている男で、こうした裏工作にも慣れている。いくつか奇妙な注文があったが、すぐに動き出した。

 その掠う相手が、この世界で最も強大な力を持つ「魔王の中の魔王」「深淵の魔王」であるなどとは、近侍の者は夢にも思わぬ事であった。

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