第6話 地上 6
蛍太郎は悲鳴を上げそうになった。
辛うじて堪えられたのは、聞こえたのが日本語だったという疑問が頭をよぎったからだった。
蛍太郎は慌てて振り返った。
そこには、ひょろりと痩せた、長身の男がいた。薄汚れたベージュのシャツと茶色のズボンをはいたその男は、日本語を話したにもかかわらず、日に焼けた頬のこけた顔に、青い目にくすんだ赤毛をしていた。見るからに日本人ではなかった。
「おい。公用語は話せるんだろうな?」
それでも男は日本語を話していた。そこで、ようやく蛍太郎は安堵のため息をついた。
どうやらこの男はガイドか通訳かで、日本語を話せるのに違いない。
いずれにせよ、ようやく自分の状況を聞く事ができる相手に出会ったのだ。
「た、助かったよ。日本語が話せる人がいて」
蛍太郎はすがるような思いで男ににじり寄った。しかし、男は怪訝な表情を浮かべた。
「すみませんが、助けてほしいのです。ここはいったいなんて言う国ですか?」
「んん?ニホン語?おまえ、何言ってんだ?」
そう言うと、男は蛍太郎を上から下までじろじろと眺めた。そして、無言で蛍太郎の隣で手を引かれているルシオールをまじまじと見つめて、ごくりと喉を鳴らした。
「・・・・・・あんたら、訳ありか?大方、盗賊や奴隷商人にでもとっつかまって、逃げ出して来たってところか・・・・・・」
男は首を傾げたが、ニヤリと笑い続けた。
「まあいい。ここは『グラーダ』って砂漠の小国だ。で、グラーダの小さな都がここだ。と言っても、俺も『グレンネック』から商売に来ただけだから、この辺の詳しい事は分からんぜ。なんせ、俺も道に迷ってこんな裏路地に入り込んじまったんだからな」
男は、ルシオールを穴があくほど見つめながら説明した。
「『グラーダ』?それはどこですか?エジプトとか、トルコとかそのあたりですか?」
「なんだ?お前はさっきから何言ってんだ?・・・・・・おれはエレスの地理しか知らんよ」
男も蛍太郎も顔をしかめた。話しがうまくかみ合わない。
「まあいい。俺はお前らが脱走者だろうが何だろうが知ったことじゃない。だから、タレこんだりしやしない。どうだ?親切だろ?」
男が蛍太郎に顔を近づけ、ニヤリと笑った。そして、呼吸を荒くしてルシオールを見つめた。
日本語をしゃべった事で男への警戒心が薄れていたが、そこでようやく蛍太郎は、男の目が欲望渦巻く怪しい煌めきを放っている事に気付いた。
薄れた警戒心がにわかに決壊領域まで達した。警戒しつつ男から半歩下がると、ルシオールを後ろ手にかばった。
「な、何が言いたいんですか?」
「商売だよ、商売」
「商売?何のですか?」
男はしゃがんでルシオールの顔をまじまじと、無遠慮に覗き込んで、「ヒヒヒ」と笑った。
「や、やめろ。この子に触るな!」
蛍太郎はカッなって、男の襟首を掴むと、ルシオールから引き離すように引っ張り倒した。
男は呆気なく地面に仰向けに倒されると、やや顔を青くした。
「ま、待て。すまない。誤解しないでくれ!」
男は思わぬ抵抗に、そして、蛍太郎の見かけによらぬ力にひるんだ。
蛍太郎は、一見華奢には見えるが、バスケットボール部で鍛えたのだから力はある。
男は動揺しながらゆっくり立ち上がると、今度はやや卑屈な笑みを口の端に貼り付かせた。蛍太郎が身構えると、ビクッと体を震わせた。
「おいおい。まずは話を聞いてくれ。俺は・・・・・・まあ、怪しいが、無害な男だ。勘違いするなよ。俺は商売がしたいんだ」
「この子には触るなよ!」
蛍太郎の威嚇にひるみながらも、男は商売を諦める気はないようだ。
「触りゃしないよ。俺が用があるのは、そのガキの体じゃなくて、そのガキの髪の毛だけだ。その髪の毛を売ってほしいんだ。どうだ?」
「髪の毛?それで何するんだ?」
男は一気に説明する。
「俺はな、人形作りの職人だ。こう見えてもグレンネックやアインザークあたりの貴族様たちには有名な職人なんだぜ。で、俺は今、こんな塩と綿織物ばかりしか能のない小国なんかに来たのは、人形用の髪の毛を買いに来たんだ。この国の緑黒色の髪の毛を買いに来たのだが、目の前でこんな見事な黄金色の髪の毛を見せられたらたまったものじゃない。どうだ?町のカツラ屋なんかより、はるかに高値で買い取ってやるぞ」
人形師と称する男は、鼻息も荒く、またジリジリと近付いてきた。
相手の得体が知れない事は変らないが、今この国の現金が手に入るのは助かるはずだと、頭の中で計算する。
まずはこの国の服を買って、水と食料を手に入れて、どこかで休む。
そして、一段落したら、役所なり警察なりを頼って、大使館に保護してもらえばいい。
そのためにも、今、蛍太郎に必要なのは、現金と情報だった。
この話は、そのどちらもが手に入るチャンスといえた。日本語が話せる相手と、今度いつ出会えるか分からないのだ。
しかし、それにはルシオールに確認を取らなければならない。
それに、蛍太郎としても、この髪の毛をたくさん切る事には強い抵抗がある。
その時、蛍太郎はパーカーのポケットにしまい込んだ髪の毛の束を思い出した。
「ルシオール。ちょっとごめんな」
ルシオールに着せているパーカーのポケットに手を入れて、その質感を確かめる。ひんやりと冷たく、溶けるように指先を滑らかにくすぐる、極上の髪の毛だ。
蛍太郎は、その髪の毛を取り出すと、ルシオールに訊ねた。
「ルシオール、ごめん。君の髪の毛を黙って持って来ていたんだ・・・・・・。それで、今この男に、この髪の毛を売ってしまってもいいかい?」
問われたルシオールは、小首をかしげて、眠そうな目のまま、一つ頷いた。
「あい」
「ありがとう」
蛍太郎はルシオールの頭をなでると、男に向かって、髪の束を差し出した。
「これでよければ売ろう。で、いくら出す?」
人形師の男は、目を輝かせた。そして、宝石をちりばめた装飾品を触るがごとく、震える手で、髪の毛の束に触れる。
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