第2話 千鶴 1

 あっという間に夏休みに入ってしまった。

 夏休みの前半は、千鶴は進路を決めなければならず色々忙しかった。

 山里が行くであろう美容師の専門学校も調べてみたが、千鶴に美容師ができる自信はなかった。結局、会計簿記の専門学校にとりあえず進む事にした。

 美容師の専門学校も、会計簿記の専門学校も同じ駅の近くにあるのが決め手と言えた。



 ようやく進路が決まりホッとしたあたりで、美奈から連絡がきた。

 山里が夏休み中、よく行っている喫茶店がわかったとの事だ。

 

 千鶴はその翌日、さっそくその喫茶店を訪れた。外観はどうという事はないのだが、中に入ると、アンティーク調の家具でまとめられていて、やや薄暗いものの、落ち着いた静かな喫茶店だった。

 千鶴は一人で喫茶店に入った事がなかったものだから、妙にドキドキしてしまう。ファミリーレストランのように案内がないのだから、勝手に席についていいのだろうか?

 周囲を見回すと、窓際のテーブル席に山里がいた。千鶴の心臓が高鳴る。

「本当にいた!?」

 期待して来てみたが、本当にいると、もう自分がどうしていいのかわからない。取り合えずあわてて顔を隠してしまう。

 もじもじしている千鶴に、カウンターの奥から声がかかる。

「空いてる席にどうぞ」

「は、はい」

 店内は客が少なく、席は選び放題だった。千鶴はカウンターの前を通り、山里の斜め後ろの席に座った。そこなら、山里に気づかれずに横顔を窺う事が、ぎりぎり出来た。注文を取りに来たので、コーヒーが飲めない千鶴はクリームソーダを小声で注文する。飲み物が来ても、千鶴の心臓は高鳴ったままだった。


「山里君、ずっと本読んでる。本当に本が好きなんだ。何読んでいるんだろう?」

「まつ毛長い」

「夏休み前より髪伸びた」

「私服姿、初めて見た」

 一つ一つの発見を千鶴は興奮して喜んだ。

 学校では千鶴は前の席で、後ろの席の山里をじっくり見る事などできなかったから、こうしてじっくり山里の顔を見る事ができるのが嬉しかった。

 しかし、同時に後悔も覚えていた。

「ああ~。偶然を装って同じ席にでもつけばよかった・・・・・・。『あれ、山里君も1人?』とか言って。いやいや、無理無理。恥ずかしくってそんな事出来ない」

 一人にやけたり、頭を振ったり。

「美奈と一緒に来ればよかった・・・・・・」


 衝動的に来てしまったので、美奈を誘ってなかった。夕べ、行きつけの喫茶店の話を聞いた時は、まさか実際に来る事になるとは思ってなかったのだ。

 それでも、こっそり眺めているだけでも幸せな気分になれる。手の中には黄色いハンカチが握りしめられている。

 自分はやはり、この青年の事が好きなのだと強く実感する。

 どうしようもない、自分でもコントロールできない強い気持ち。これが「恋」なのだ。



 一時間ほど、山里の横顔を眺めていた千鶴だが、そこでふと恐ろしい思いに至った。

 自分のしている行為はいったい何なのだろうか?

 山里に対して、悪意も害意も全くないが、こうしてコソコソと観察して独りよがりの喜びに浸っている。

 これは、かつて自分を恐れさせたストーカーと同じ行為ではないだろうか?

 自分は山里の事がたまらなく好きなのだが、それはあのストーカーだった同級生も同じだった。

 千鶴の事が好きでたまらなくなり、挙句に千鶴も自分の事が好きだと錯覚して、自分勝手に交際しているものと思い込んで、自分が送る手紙や、異常な、でも本人にとっては意味のある贈り物をする。

 それを千鶴が喜んでいると勘違いして、行為はエスカレートしていった。


 美奈が本人を呼び出して一つ一つ誤解を解いていって、ようやくストーカーをしていた彼も、自分の過ちに気づいた。

 それで千鶴の事を諦めてくれた。


 あの時自分が受けた恐怖と苦痛を思い出す。

 そして、今、自分がしている行為を思うと、急に幸せな気分がしぼみ、吐き気がするほどの自己嫌悪に陥った。

 山里に対して申し訳ない気持ちが、涙となってあふれてきた。そんな涙を、山里にもらったハンカチで拭く訳にはいかない。手で必死に涙をぬぐう。

 千鶴はノーメイクなので、顔をこすっても気にする必要はない。 


 ようやく涙が止まったので、急いで席を立った。そして、隠れるように会計を済ませると店の外に飛び出す。

 すぐに虚脱感が襲ってくる。

 がっくりと項垂れて海と反対側、駅の方に向かってノロノロと力なく歩き出した。

 すると少しも進まないうちに後ろから声がかけられる。

「あれ?田中さん?」

 振り向くと山里が立っていた。白い半そでのYシャツは前を開けていて、下にスポーツ会社の小さなロゴが入っただけのシンプルなTシャツを着て、ストレートのGパン。そこだけ派手のデザインのバスケットシューズ。小さなショルダーバッグを肩にかけた私服姿の山里蛍太郎。


 千鶴は心臓が飛び出そうになった。今のみじめな気分の自分を見られたくなかった。でも、声をかけられた事がたまらなく嬉しい。

「や、山里君。久しぶりだね」

 何とか返事をする事に出来た自分に驚く。

「久しぶりだね」

 山里が微笑む。レアな表情に舞い上がってしまいそうだ。

「どうしたの?こんなところで」

 喜びもつかの間、返事に窮してしまう質問が来た。

「あ・・・・・・。う、海を見に来たの」

 苦しい内容の返事しか出てこなかった。

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