第137話 最初の宗教改革

【パリのレオ・ルグラン③】


 「奇遇ですね。私の夢もレオと同じなんですよ。ただしお金の力ではありませんが」


 そう言ってコーションは再び「社会契約論」に目をおとした。


「国家とは何か? 主権とは何か? この本は私に教えてくれました。また『公益』という概念についても私は初めて知りました。いや……ギリシア哲学や過去の書籍でもそれらは語られてきたことなので『初めて知った』という言い方は正しくないですね」


 現代人の俺でもルソーの考え方を説明しろといわれたら戸惑うだろう。中世ヨーロッパ人のそれも農民出身の少女がルソーを語るのは、まるで夢をみているかのような感覚だった。


「君が考える理想の国家とはどんなものなんだ?」


「ルソーは『一般意志』という考え方を示しています。共同体の構成員である人民が共通して持つ意思だということです。これは正直わかりにくいです。人民が全て同じ意思を持つ必要があるというのです。そのようなことが可能でしょうか? そしてルソーはそのためには『市民宗教』が有効だと言っています。これは『聖職者の宗教』とは別物なのです」


 コーションは、俺の質問に直接答えず、ルソーの思想について語り出した。話しながら自分の考えを整理しているのかもしれない。


「つまりは、『市民宗教』により人民が共通の意思を持つことが可能になる。しかも『市民宗教』とは君が属するカトリック教会ではない。それってカトリックが別の宗教に置き換わると言うことか?」


「そうです、カトリックの司教であるわたしが決して口にしてはならない言葉です。いやルターやカルヴァンも同じ立場だったわけで……」


 ルター? カルヴァン? コーションの口から出た名前が俺の脳内で反響する。こいつの考えが少しずつ読めてきた。こいつは――コーションは――、もしかして最初の宗教改革をやろうとしているのではないか?


 まさかユグノー戦争を起こそうとしているのではないか? そんな嫌な予感が俺の頭をよぎった。


「コーション……いやジャンヌ。こんな裁判を始めたらお前が異端者にされてしまうぞ。悪いことは言わないからやめるんだ。それに……」


「それに……」


「アイヒを、俺の妻を巻き込むな」


 コーションの顔から表情が消えた。


「巻き込んだつもりはありません。彼女もまた当事者のひとりなのですから」


 当事者……当事者と言ったか。やはりジャンヌは俺たちの正体に気が付いている。だとするとこれは復讐なのか? ジャンヌを利用したアイヒたち天使や、シャルル王、そして俺に対する――


「レオ、あなたにはジャンヌの弁護をお願いしたいのです。今のあなたにはお金がある。そして今のジャンヌにはまだ利用価値がある。シャルル王も協力してくださるでしょう」


 俺が黙っているのを見てコーションは軽く微笑みながら言った。


「他に方法はないと言うんだな?」


「はい」


「公平な裁判にすると約束してくれ」


「いたします」


 コーションはキッパリと答えた。


「わかった」


 俺は覚悟を決めることにした。ジャンヌが本当に宗教改革を行おうとしているのかどうかは正直わからない。だが今は裁判でジャンヌの無罪を立証してアイヒを救うと同時に、ジャンヌの真意を見極めるしか方法がなさそうだと思った。


 コーションと別れた俺たちはブールジュへ戻り、シャルル王へことの成り行きを報告した。シャルル王は身代金を支払わずにジャンヌを取り戻すことが出来る可能性に興味を示した。ジル・ド・レはパリで別れた後、俺たちが独自の行動をとったことに不快感を表したものの、ジャンヌの弁護に協力を申し出てくれた。ただひとりラ・トレモイユだけは乗り気ではないようだ。


「ルグラン殿、異端裁判などに付き合う余裕がおありかな? ローマ帝国との和平交渉を進めるのが先ではないのか?」


 トレモイユは俺の執務室へ押しかけてくると、詰め寄ってきた。


「しかし、肝心のクレオパトラが反乱の鎮圧でイタリアへ遠征中なんです。交渉相手が不在では仕方ないでしょう」


「それは好都合ではないか。とりあえずイングランドと和平を結んでしまえばいい」


「そんなことをしたら、ローマ帝国の怒りを買いますよ。反乱がどの程度の規模になるのかもわからないのです。それに落ち目のイングランドに時間を与えることになってしまいます」


 俺が意見を変えないとさとったトレモイユは、歪んだ笑いを浮かべた。


「やけにクレオパトラに肩入れされるのですな。どうやら貴公には和平よりも大事なものがあるようだ。私は王室侍従長として必要なことをさせてもらう。くれぐれも行動には気を付けられるがよかろう」


 そう言い残すとトレモイユは大股で執務室を出て行った。最後の言葉は俺に対する脅しだったのだろうか? 表立って対立するのは避けたかったが仕方がない。トレモイユの妨害工作も覚悟しないといけないだろう。


 しばらくしてコーションから書簡が届いた。書簡には来年1月9日からパリでジャンヌの予備審理を開始すると書かれていた。

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