第105話 テオの望み
「ところがです。その後しばらくしてコジモさんが『ヘルメス文書』が欲しいと言い出したそうなのです」
私は、ここで言葉を切ってテオの反応を待った。
「おそらく、その社員がコジモ殿に『ヘルメス文書』のことを報告したからでしょう。もともとプラトン哲学に興味を持っていたコジモ殿は、報告を聞いて文書が欲しくなってしまった。そんなところじゃないかな?」
私がまわりくどい言い回しをしているにも関わらず、テオに苛立った様子はない。肩まである栗色の髪にはツヤがあって、よく手入れされている。肌もきれいだ。ものごしは柔らかで好印象を感じる。だが……何かに引っ掛かる。
そうだ……シスターモンテギュと話をした時も同じような印象を持った。言葉によどみがないのだ。普通の人は言葉を発するときに、「あー」だの「えー」だの余計な言葉を発してしまう、アイヒさんなんかは特にその傾向がある。だが、シスターモンテギュとテオにはそれがない。話し方の訓練をしているのではないか、そんな気がする。
「私もそう思いました。それが自然です。ところが違いました。社員がコジモさんに報告するよりも先にコジモさんから『ヘルメス文書』について質問されてしまったのです。なぜでしょう? それを知るにはさらに金貨が数枚必要となりました。その社員から事情を知っていそうな別の社員を紹介してもらい、ある情報を得ました」
私はテオの青い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「コジモさんが『ヘルメス文書』について興味を持ったのは、ひとりの女性商人と面談した後だったのです。その女性は『テンタツィオーネ※』と言う商店の店主だと名乗ったそうですが、誰もその女性のことを知らなかったそうです」
※注……誘惑という意味のイタリア語
テオは何も言わなかった。だが瞳の光が少しだけ揺らいだような気がした。私は話を続ける。
「ダンディーニさん、あなたはコジモさんが『ヘルメス文書』について社員から報告を受けたという話を誰から聞いたのですか?」
「もちろん、コジモ殿本人からだよ。ジャンヌ、君はその女店主がコジモ殿に文書の話をしたと思っているのかい? だとしても私はそのことを知らなかった。コジモ殿がそのことを私に言わなかっただけだろうね」
「サルヴァドーリ商会の経営者は女性とお聞きしました。ご紹介いただけますか? それが契約の条件です、テオ」
ダンディーニからテオに呼び方を変えたのはもちろん意図的にだ。十分にエサは巻いた、後は待つだけだろう。テオの目が細くなった。その顔からは笑みが消えている。
「いやいや、参ったね。君はずいぶんと頭が切れるようだ。今ここにいるのは私と君だけだ。腹を割って話をしようじゃないか」
「そう願います」
「君とマリアは面識があるんだったね。ああ、君にはシスターモンテギュと名乗っていたのか。マリアは君の仲間、ルグランとアイヒへルンにも顔を知られていてね、だから表立って動けない。代わりに私がいろいろと動いているわけだ」
「あなたたちもテンプル騎士団の財宝を狙っているのでしょう?」
「ああ、確かにそうだ。だが財宝は手段であって目的ではない。我々の目的は君を救うことだ。まあこれはルグランも同じなんだけどね」
「私を救うとはどういう意味ですか?」
「それは教えられない。それを教えることは神の意志に背くことになるからだ。君も知っているだろう? 時間は神のものなんだ」
「では質問を変えます。私を救うことであなたやレオは何を得るのですか?」
「メリットがないと我々は動かない、そう思っているんだね。利用されるのはいやかい?」
利用される……か。もちろんいやだ。私はドンレミ村にいる婚約者のニコラ・メルローのことを思い出していた。私はニコラの気持ちを利用して情報収集を行なっていた※。
※注……第46話参照。
「利用されるのは気分がいいものではないですね。もっとも私に利用価値があるとは思えませんが」
「そんな時はお互いに利用し合えばいいんじゃないかな? 私は君に価値を提供できると思うよ」
そもそも私は何を求めてイタリアへ来たのだろうか? カエサル様がいたローマはすでになく、チェーザレさんはここにはいない。今はイタリアへ連れてきてくれたレオの役に立ちたいと思っている。目の前にいるこの男、テオ・ダンディーニは私にとって敵なのだろうか?
「あなたの上司であるシスターモンテギュは、レオやアイヒさんの命を狙っています。つまり私たちの敵だということです」
「彼女はね。妄想にとらわれているんだよ。ローマ帝国を再興するという夢に取り憑かれている」
「あなたは違うのですか?」
テオは首を横に振った。
「私はそんな大それたことは考えちゃいない。とてもささやかな望みしか持ってないんだ」
テオの口から次の言葉が発せられた。
「えっ?」
思わず聞き返した。
――かたりはのふっかつ
そう聞こえた。聞き間違えだろうか?
「聞き間違えなんかじゃない。カタリ派と言ったんだ」
グノーシス主義どころではない。この男は危険だ。この男の言葉に耳を貸してはならない。私の胸に言いようのない不安が広がりつつあった。
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