第10話 ヨランド・ダラゴン

 ――トロワ条約、1420年5月21日に調印されたフランスにとって屈辱的な条約。この条約でイングランド王ヘンリー5世がフランス王シャルル6世の後継者となることが決定した。そしてそれは俺が使えているシャルル王太子(将来のシャルル7世)が王位の継承権を失ったことを意味していた。王太子はになったのだ。


 さらに問題なのは、イザボーがこの条約が調印される過程で、シャルル王太子が自分の夫であるシャルル6世の子供ではないと、ほのめかしたことだった。仮に夫との子でないにしても自分が産んだ子であることは間違いない。お腹を痛めて産んだ子供である王太子になぜここまでの仕打ちをするのか? 疑問に思うかもしれない。


 ことの発端はイザボーの夫で王太子の父であるシャルル6世が、発狂したことにさかのぼる。1392年8月3日、ブルターニュ遠征中だったシャルル6世はル・マンの森付近で突然、自軍の兵士に切り掛かった。王は取り押さえらえたが数名の兵士が命を落としたという。この事件以降、シャルル6世は発狂の発作を繰り返すようになり、国政の担当が困難になった。いつしかシャルル6世は狂気王ル・フォルと呼ばれるようになった。


 王はイザボーに暴力を振るうようになり、結婚当初、仲睦まじかったふたりの関係は急速に冷えていった。イザボーはやがて複数の男性と関係を持つようになる。イザボーは夫であるシャルル6世の弟オルレアン公ルイ、アルマニャック伯ベルナール7世、ブルゴーニュ公ジャン1世との関係を疑われていた。


 これらの関係は夫が持っていたフランス王としての権力を、自分のものとするためにすり寄ったものだったのだろうか? 夫からの愛情を失った寂しさからだったのだろうか? 俺にはわからない。ただ、その過程で実の子であるシャルル王太子との派閥争いに巻き込まれていった。いつしかそれが王太子に対する憎しみに変わっていったのかもしれない。


「イザボーに会えって言ってもなあ、今、彼女はパリのサン・ポル館にひきこもってるんだろ?」


 パリはイングランドのベッドフォード公が支配しており王太子派の俺が入れそうにもない。ちなみにベッドフォード公は、王太子とフランス王位継承権を争っているヘンリー6世の叔父にあたる。ヘンリー6世がまだ2歳なので摂政せっしょうとして政治を行っていた。


「何とかパリに行けないの? ブルゴーニュ派に変装するとかしてさ」


「危険すぎるだろ、敵の本拠地に潜入するとか。おまけにイザボーは敵側の人だぞ」


「うーん、なんでこんな無茶なミッションを命じるのかしら?」


「そもそも、天使ノートに従わなかったらどうなるんだ?」


 俺の素朴な疑問にアイヒはきょとんとした顔になった。


「どうなるのかしら? ちょっと待って。書いてあるかも」


 アイヒは天使ノートをパラパラめくる。


「あっ! あったわ。どれどれ……、ミッション指令に従わない場合は3ページへ進めって……えっとー、このページにきた場合は次のミッションに変更することができます。ただし、与えられるミッション内容はランダムに決まります。変更する場合は○○ページへ、変更しない場合は元のページへ戻る――だって」


「ああ、わかった。これゲームブック形式だわ」


「何なのそれ?」


「遥か未来で流行った遊びだよ。説明めんどうだから気にするな」


「気にするなって言ってもさあ……、あっまだ続きがあった! このページ(3ページ)に来るのが4回目の場合、50ページへ進め(特別に50ページは事前に読むことができます)だって」


 俺は自分が持っているノートの50ページを読んでみた。ちなみにページ番号は各ページの端っこに記載されている。


『あなたはミッションに失敗した。地獄への扉が開きあなたは呑み込まれる』


 あー、だろうと思ったー。つまりミッションは3回までしか変更できないってことだ。4回目は有無を言わせず地獄行きだ。そしてミッション以外の行動を取ると反作用とやらが起こるわけか。まあ反作用についてはまだ体験してないので何とも言えないが。


 俺はノートをアイヒに見せた。


「これ、あんただけよね! 私もじゃないよね。天使が地獄とかないから! ありえないからっ!」


「お前のノートも見せろよ」


 アイヒが自分のノートの50ページを開く。


『あなたはミッションに失敗した。あなたは天界を追放され堕天使となる』


 アイヒはパタンとノートを閉じた。顔面蒼白で手はプルプルと震えている。


「ねえ、強いエールをちょうだい。今すぐよ。いますぐーちょーだいよーおお、うわーん!」


 わーわーと泣きわめく堕天使予備軍をほっといて俺は考える。もう一度天使ノートを見返してみる。


 『シャルル王太子のメールに会え』


 この『母』という表現が微妙に引っかかっていた。この文章ではイザボーに会えとは書かれていない。いや待てよ。ここでいう母は必ずしも実母である必要はないんじゃないか?


 それならもうひとつの可能性があるぞ。


 ――ヨランド・ダラゴン


 今日、王太子の城で会った王太子妃マリー・タンジューの母親の名だ。シャルル王太子にとっては義理の母親ということになる。だが、王太子とヨランドの関係は単なる義理の親子というだけではない。1414年、ヨランドは11歳の王太子と9歳の娘マリーの婚約を取り決めた後、幼いふたりを夫の所領であるフランス西部、アンジェへ連れて帰った。ヨランドは王太子を自分の子供のように育てたらしい。


 俺はもともとヨランド・ダラゴンにも会うつもりだった。理由はふたつある。ひとつはヨランドがシャルル王太子に大きな影響力を持った人間であること。もうひとつはジャンヌが故郷のドンレミ村を出発して、最初に訪れたヴォークルール要塞の守備隊長、ロベール・ド・ボードリクールとの関係からだ。


 ボードリクールはヨランドの息子ルネ・ダンジューの顧問官を務めていたことから母親のヨランドとも親密だったと言われている。彼は一度はジャンヌを追い返したのだが、二度目は王太子宛ての紹介状を持たせて送り出している。これにヨランドの後押しがあったのではないかと言われているのだ。ジャンヌが王太子とシノン城で謁見した後、ポワティエでジャンヌに対する審問が行われたが、この審問を主導したのはやはりヨランドだった。


 うん、これでいこう。ミッションはシャルル王太子の義母にして育ての親、ヨランド・ダラゴンに会うこと。さて、アイヒにもできる範囲で説明するか。


 アイヒは椅子に座って窓から外をぼーっと眺めているところだった。堕天使フラグが立って現実逃避しちまったんだろう。俺は何も言わず部屋を出て食堂に向かった。


「すまないが、強いエールをくれ。ああ支払いは妻がするから」


 宿の従業員にそう言ってエールを受け取ると、抜け殻のようになった天使がいる部屋へ向かうのだった。


 翌朝、まだ外が暗いなか目が覚めると俺は一番に天使ノートを確認した。


『シャルル王太子の義母、ヨランド・ダラゴンがいるアンジェへ行く』


 どうやら俺の考えは正解だったようだ。しかし俺の考えに従って自動的に書き変わるなんて、なかなか使えるノートじゃないか。


 俺はベッドで大の字になって寝ているアイヒを揺さぶって起こす。


「おい、起きろ! 朝だぞ」


「ううっ、頭痛いー。気持ちわるー」


 どうやらエールで二日酔いになったようだ。


 おっさんか、お前は。

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