第12話 神の声

【ドンレミ村のジャンヌ】


 ドンレミ村は静かでいいところだ。今年12歳になる私は、今日も教会へ行くために畑沿いの道を歩いていた。父さんのジャックは農業を営むかたわら、領主様の代わりに税金を集める仕事もしているので、とても顔が広い。父さんの娘ということで、私も村人からよく声をかけられる。


「ジャネット※! また教会へ行くんだね」


 ※注 ジャンヌ・ダルクは故郷のドンレミ村でジャネットと呼ばれていた。


 声をかけてきたのは、同年代の友達オーヴィエットだ。


「今年も豊かな実りがあるように、あしきものからお守りくださるようお祈りするの」


 オーヴィエットは私のことを信心深い、とてもいい子だと他の村人にも言っているらしい。私にとって神様に祈ることは、とても重要なことで友達と遊んでいる最中でも気がつくと祈りを捧げていることがよくある。


 私の家は2階建てなのだが、他の村人の家で2階建てはほとんどない。


「ジャネットの家は広くていいね」


 広い家なんて私にとってどうでもいいことだったんだけど、そんなことをよく言われて困ってしまった。母の話だとこの村からずっと離れたパリのまちには、領主様の館よりもっともっと大きなお屋敷があるらしい。それでも私はちっともうらやましいなんて思わない。


 私の望みは神様の教えに従って、清く正しく生きていくこと。ただそれだけなのだ。


 ドンレミ村の近くに『妖精の樹』と呼ばれる樹があって、その近くに泉があった。その泉の水には病気を治す効果があると言われ村の病人が飲みに行くのだと言う。私は友達と一緒にこの場所まで遊びに行き樹の小枝や葉で飾りを作ったりして遊んだ。またこの場所には妖精が現れるという話を村の村長の奥さんから聞いたこともある。


 妖精って本当にいるのかな? 友達は口々にその話をしていた。だけど私にはそれよりももっと気がかりなことがあった。イングランド人たちがフランスの領土に攻め込んで迫ってきていることだった。私は文字を読めないのだけれど、母のイザベルは今のフランスがどういう状況なのか色々と教えてくれた。


 フランスの国内は我々の王様であるシャルル王が属するアルマニャック派とイングランドの仲間になっているブルゴーニュ派に分かれて戦っているそうだ。いつしか私はシャルル王をお救いしたいと強く願うようになった。村から出たことがない無力な私に出来ることは何だろう?


 神様を信じて一心にお祈りをすることだ。王様のお力になれるように日々の仕事を一生懸命励むことだ。秋に種まきをし、よく年の夏に小麦を収穫する。春にも種まきをして秋には大麦を収穫する。小麦を製粉してパンを作る。大麦は家畜の飼料にしたり、エールの原料になったりする。父や母とともに日々の仕事に全力で取り組めばきっと王様の助けになる。


 村の教会が近づいてきた。青い空が清々すがすがしくて足取りも軽くなる。


 その時だった――


「――ジャンヌよ。聞きなさい」


 えっ?


 誰? ドキリとして歩みを止める。確かに声が聞こえた。おそるおそる周りを見まわすが誰もいない。気のせいだろうか? 道の両側は一面の畑が広がっていて隠れる場所なんかありそうにもない。


「フランスの王を助けなさい。イングランド軍を駆逐くちくするのです」


 今度はハッキリと聞こえた。聞こえた声は男性とも女性ともわからない、それでいて心に響いてくる声だった。間違いないこの声は……


「神さま! ミカエル様なのですね!」


 私はそう叫んでひざまずいた。全身が驚きと喜びで満たされていくのがわかる。同時に怖れと不安も襲ってくる。


「そうです。疑ってはなりません。ただ信じるのです」


 優しい声が答える。フランス王を助けよ。イングランド軍を駆逐するのだ。神様は確かにそう言った。でもどうやって? 私は農夫の娘なのだ。自分が生まれた村から出たこともない平凡な人間なのに。


「神様、私は平凡な娘です。この私に何が出来るのでしょうか? どうかお導きください」


 私は必死にお願いした。私の目からは涙がこぼれ出していた。


 ――答えはない。


 しばらくその場に止まって再び神様の声が聞こえてこないか待っていたが、それきり何も聞こえなかった。仕方なく教会へ向かうことにしてトボトボと歩き出した。教会で私を出迎えてくれたのは、いつものジャン・ミネ司祭ではなかった。


「あの、ミネ司祭はいらっしゃらないのですか?」


「すまないね。ミネ司祭は所用でヴォークルールへ行かれていて不在なんだよ」


「えっと……あなたは?」


 私は礼拝堂の入り口から主祭壇へ向かう通路、いわゆる身廊しんろうの真ん中で、私に向かって微笑んでいる男性を観察した。ロシェトウムと呼ばれる緑色のオーブを身につけているが、ミネ司祭が身につけていたものより、かなり上等なもののように見えた。頭頂部は髪の毛が剃られて地肌が露出している。


「トリスタン・シモンだよ。ミネ司祭の代わりにこの教会に派遣されたんだ」


「あの……ミネ司祭はしばらくいらっしゃらないのですか?」


 足繁く教会に通っていたおかげでミネ司祭とは気ごごろが知れていたのだが、今日初めて会った司祭と何を話していいのかわからず緊張していた。困ったどうしよう?


「それがわからないんだ。何か面倒な用事ができたみたいでね。ああ、そうか、よく知った司祭様の前でお祈りしたいんだね。もし気になるようであれば祭壇の奥に行っておこうか?」


 実を言うと先ほど神様の声が聞こえたことを相談しようかどうか迷っていたのだった。私のような平凡な娘がフランスを救うなどと大それたお告げを聞いたと言って信じてもらえるだろうか? ミネ司祭ならともかく初対面の司祭にうまく説明できる自信がない。


「おや? 涙の跡があるね。何か相談したいことがあるのかな?」


 シモン司祭はまるで私の心を見透かしたかのように優しく語りかけてきた。この声どこかで聞いたような……、それにシモン司祭の笑顔を見ていると不思議と心が穏やかになるような気がした。


「司祭様! 私は神様の声を聞いたのです!」


 意を決して私は叫んだ。心臓がドキドキして飛び出しそうになる。


 司祭様の目が大きく見開かれた。だが彼の青い瞳には驚きよりも優しさの光が灯っているように感じた。


「おおっ! そうか……、そうか……。神様は君になんとおっしゃったのかな?」


「……フランス王を……シャルル王を……救うようにおっしゃられました。それからイングランド兵をフランスから追い出すようにと」


「そうか……神様がきみにそれを……そうか」


 何か納得したように司祭様は何度もうなずいた。


「君が現れることは予言されていたんだ。ひとりの乙女によってフランスは救われるとね」


「えっ?」


 私は言葉を失った。何と答えていいかわからずただ、司祭様をじっと見ることしか出来なかった。


「おおっ、まだ君の名前を聞いてなかった。私としたことがうっかりしていたよ。君の名前を教えてもらえるかい」


「ジャック・ダルクの娘でジャネットと申します」


「ジャネット、よく話してくれたね。勇気が必要だっただろう」


「あの……司祭様、私の話を信じていただけるのですか?」


 シモン司祭は、ニッコリと微笑んだ。


「もちろんだとも。君の力になりたい。もしまた神様の声が聞こえたら私に教えてくれるかい?」


「はい、わかりました。お伝えします」


 自分の話を信じてもらえたことがとても嬉しくて、私はキッパリと答えた。


「――乙女ジャンヌジャンヌ・ラ・ピュセルか」


 司祭様が小さな声でつぶやいた言葉を私はよく聞き取れなかった。

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