第70話 救うべき世界

【ドンレミ村のジャンヌ②】


「神様はフランスを救えとおっしゃったのですね。……わたしの言いたいことはこうです。救うのはフランスだけとは限らないのではないかと」


 シスターモンテギュの青い瞳は怪しげな光を放ち始めていた。フランスだけではない? シスターの言葉の意味が理解できず、私は目をそらした。


「乙女ジャンヌ、あなたが知っているふたりのカエサルについて話をしましょう。そう、ガイウス・ユリウス・カエサルとチェーザレ・ボルジアです」


 カエサルと聞いて私の心は激しく揺さぶられた。私が目標とする人。憧れる人。でもなぜシスターモンテギュの口からカエサル様の名前が出て来るのだろう。


 ――待て……何かがおかしい。


 ――おかしい。この女の話は変だ。


 私は必死に頭を巡らして違和感の正体にたどり着いた。


  ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前100年から同44年と今から1,400年以上前の人物だ。モンテギュが知っていてもおかしくはない。だが――チェーザレは、今から50年も先に生まれる人物なのだ。この女が知っているはずはない。


「なぜ……知っている?」


 私は絞り出すように言った。


 シスターモンテギュは何も言わない。ただ穏やかな目でこちらを眺めている。


「あなたは、チェーザレのことを知らないはずだ」


 私の問いにモンテギュは、ほんの少しだけ口の端を引き上げたように見えた。


神の声を聞くことができるのです」


 胸の鼓動が一気に早くなった。この女も神様の声を聞くことができる。そう言ったのか?


「神様は私におっしゃりました。ドンレミ村に乙女ジャンヌという少女がいる。彼女を助けなさい。救いなさい――と」


「せ、世界ですって?」


 自分の声が震えているのがわかった。世界? 世界とは何だ? シスターモンテギュの言っている意味がわからない。


「カエサルはローマの内戦に勝利し、イタリア半島に平穏をもたらしました。またガリアを平定してここフランスにも平穏をもたらしたのです。その後、ローマ帝国は地中海全域に支配地域を広げ、3世紀の初めにカラカラ帝が帝国内の全自由民にローマ市民権を与えました」


 シスターモンテギュの語った内容については書物を読むことによって知識としては知っていた。だが『地中海』という海、いやそもそも海を見たことがないのだが、いったいどれほどの広さでその周辺を全て領地とすることの凄さが全く実感できない。


 シスターモンテギュは、話を続ける。


「チェーザレは、どうでしょう? 父であるロドリゴがローマ教皇となったことを利用して自らの権力を拡大し、私欲を満たしただけなのでしょうか?」


 私欲? 確かに私欲なのかもしれない。だがチェーザレの望みとは何だったのか?


「分裂したローマ帝国の西半分が滅びた後、イタリア半島はバラバラになってしまい、かつてローマ帝国によってもたらされた平穏が失われてしまいました。チェーザレのやり方には――もちろん問題もあったかもしれませんが、イタリアを再度一つの国とするという広い視野があったのではないでしょうか?」


 シスターモンテギュの言わんとすることがおぼろげながら見えてきたような気がした。


「シスターモンテギュ、あなたはカエサルとチェーザレについて普通の人よりも広い視野を持っていた特別な人だと、そう言いたいのですか?」


 私の答えにシスターはうなずいた。


「世界とは――自分がまだ知らない未知の領域を指すと私は考えます。そしてその領域に足を踏み入れた時はじめてそれは『自分の世界』となり得るのです」


 シスターは話を続ける。


「乙女ジャンヌ、あなたは神様のお告げによってフランスを救おうとされている。だが、あなたの救おうとしている『フランス』はあなたが知っているほんの少し土地とそこに住む民だけです。それはヴォークルールかもしれないし、パリかもしれない、あるいはノルマンディーかもしれない」


 シスターは一旦ここで言葉を切って青い目でこちらを見つめた。私が真剣に聞き入っているのを確かめてから話を続ける。


「あなたに神様はおっしゃったのではないですか? 文字を学び、本を読み知識を得るようにと。その結果はどうなりましたか? あなたの認識する世界は広がったのではないですか? あなたの救うべき世界――それを何と呼ぶのか?『フランス』? 『ローマ』? それとも『イタリア』? どう呼ぶかはもう問題ではないのです。あなたが認識できる場所全てがあなたの『世界』であり、あなたが救うべき場所なのです」


 私が認識できる場所全て――それが世界


 シスターの言葉は私の心をかき乱し頭をぐちゃぐちゃににした。神の声を聞くことができるシスター、そのシスターの口から吐き出される言葉は神様の意思によるものなのだろうか?それとも私を惑わそうとする危険な言葉なのだろうか?


「私にどうしろというんです?」


 シスターモンテギュはフーッと息を吐き出した。


「混乱しているのですね。無理はありません。あなたにはあなたを支える人材が必要です。私はあなたを支えることができる。あなたの目となることができる。私と共に行きましょう」


「あなたと共に行く? いったいどこへ?」


「その答えはあなたが既にお持ちのはずです、乙女ジャンヌジャンヌ・ラ・ピュセル


 シスターは静かに言った。


 


 

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