第82話 首飾り事件
「あんたはマリー・アントワネットと会ったことがあるのか?」
「ええ、あるわ。もちろん天使としてではなく人間としてだけどね」
それからペリエルは自分の思いを少しづつ語り出した。ペリエルから見たマリーは一般にイメージされているような、国民のことを何も考えず欲望のまま浪費を続ける悪女とは思えなかったこと。王妃として最後まで誇りを持って生きていたこと。それらを思い出しながら話してくれた。
「彼女はそのままでも十分救えると私は思ったの」
ペリエルは下唇を噛み締める。後悔の気持ちが湧き上がっているように見えた。
「でもそれは幻想でしかなかった。いつの間にか彼女は国民の憎悪の対象になっていったわ」
「マリー自身を大きく変える必要があったってことか?」
「そうね。多分そうだと思う。彼女の評判が地に落ちる原因になった事件を知ってるかしら?」
「首飾り事件か?」
「そう、私はあの事件を防ぐことができなかった」
1785年のフランス。フランス革命の勃発が1789年なので、その少し前の出来事だ。自らをフランス王家であるヴァロア家の
ラ・モット夫人は、ロアン枢機卿にマリー・アントワネットの信頼を回復するために話をしてあげると告げた。言葉巧みにロアン枢機卿をだました夫人は、マリ—が高価なダイヤの首飾りを欲しがっていると話す。ただ浪費で国民の反感を買うことを気にしているマリーは直接、首飾りを買うことができない。ロアン枢機卿に代理人として首飾りを買ってもらえないか、とマリーから依頼を受けたと告げたのだった。
ロアン枢機卿は、喜んで160万リーヴル(日本円で129億円)の首飾りを購入しラ・モット夫人へ渡した。夫人はマリーへ首飾りを渡すと言ったが、その約束は果たされることはなかった。夫人は首飾りをバラバラにして売り払ってしまったのだ。首飾りの代金が支払われなかったことで宝石を売った商人べメールが騒ぎ出し、事件が発覚した。
ロアン枢機卿とラ・モット夫人は逮捕され、激怒したマリーは裁判をおこした。結果、ラ・モット夫人は有罪となり両肩に『泥棒』と焼印を押されて投獄されたのだが、ロアン枢機卿は無罪となった。
「あの事件で、マリーは利用されただけで責任はなかったんだろ?」
「そうね、それでも国民はマリーが首飾りを騙し取ったのだ、マリーとラ・モット夫人は愛人関係だったのだ、と噂したわ」
国王ルイ16世が無罪となったロアン枢機卿を宮廷から追放したことも更なる国民の反感を買うことになった。この事件により国民が抱いていたマリー・アントワネットへの反感が表面化し、王妃の権威は地に落ちたのであった。
「私は、マリーの側近のひとりとして彼女にロアン枢機卿をゆるすようにとアドバイスしたわ。でも彼女は聞く耳を持たなかったの」
ペリエルは視線を落とした。辛い思い出になっているのかもしれない。
「マリーはそんなにロアン枢機卿を嫌っていたのか?」
「ロアンは、1772年にプロイセン・オーストリア・ロシアの3国でポーランドが分割されたとき、マリーの母親であるマリア・テレジアを非難する手紙を書いたの。そのことを知ったデュバリー夫人が宮廷中に言いふらしてマリーは嫌だったはずよ」
「なるほど、自分の母親と母国オーストリアを非難されただけじゃなく、宮廷でも居心地が悪くなったというわけだ」
「でもね、ロアンはマリーになんとか許してもらおうと必死だった。マリーの敵ではなかったの。私はロアンをパリから追放したのは悪手だと思っているわ。ロアンだけでなく要職についていた彼の親戚一族も次々にパリを去ってマリーの悪評をフランス中にばら撒いたのだから」
「なるほど、敵ではない人々を私情に任せて追放した結果、新たな敵を作り出したと言うわけか」
「マリーはロアン憎しのあまり、私たちの反対を押し切って高等法院へ裁判を起こすことを主張したわ。何の落ち度もない自分の言い分が認められるはずだと信じて疑わなかった。でも高等法院は王家の味方ではなかったわ。反国王派はこの裁判を利用して王家の権威をおとしめることに成功した」
ペリエルは再び視線を上げた。琥珀色の瞳が強い光を放っている。
「マリーは自分に正直なだけだったと私は思う。自分の母親、生まれた祖国、フランスの国民、その全てを愛していた。でもね、フランスの国民はすでに彼女を愛してはいなかった。この時はじめて彼女はそのことを
「ジャンヌも同じだと言うのか?」
俺の問いにペリエルはゆっくりとうなずいた。
「ジャンヌはマリー以上に純粋だわ。神様の言葉を少しも疑うことはないし、物事をシンプルにとらえている。そこがジャンヌの長所であり最大の強みだと思うわ。まわりに彼女をサポートする人間がいれば、お金があれば彼女を救うことができるのかもしれない。でもね、私はたとえそうであっても彼女はいずれ真実を知ることなると思っているわ」
――自分が愛しているものが、すでに自分を愛していないことに
そう言ってペリエルは目を閉じた。
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