第94話 チューリップ・バブル

 ――バブル。正しくはバブル経済という。不動産や株式などの資産価格が、投機によって実体経済とかけ離れた水準まで高騰すること。バブルとは英語の「泡」のことで、高騰した価格が下がり始めるとまるで泡が弾けるように一気に下がり続けることから「バブルが弾ける」と表現される。


 20XX年、アメリカでファンドマネージャーをしていた俺はこの『バブル崩壊』によって全てを失った。酒浸りとなりペットボトルの水に足を滑らせて死んだ俺は、大天使ミカエルによって中世ヨーロッパに転生、下級天使アイヒヘルンと共にジャンヌ・ダルクを救うというミッションに挑戦している。だが、バブルの熱狂とその後の地獄を忘れてはいない。


 バブルは弾けて初めて、それがバブルだったと気が付くと人は言う。だが一方で「音楽が鳴っているうちは、踊り続けなければならない」という言葉もある。これは米銀行シティグループのCEOだったチャック・プリンスが2007年に語った言葉だ。その後リーマンショックが発生し世界は大混乱となった。


 この言葉はバブルの実態をよく表している。もうそろそろ危ない、異常だと皆が感じ始めていたとしても周りの人間が儲けているのに自分だけやめるわけにはいかないのだ。


 1637年のオランダ。人々が熱狂していたのはオスマン帝国からもたらされたチューリップという花であった。現代の日本人には説明の必要は無いだろうが、チューリップは春に咲く球根植物で先が尖った玉ねぎのような形をしている。花も葉もシンプルで美しい。


 当時、オランダ東インド会社は大変好調で、オランダには他の地域から投資マネーが流入していた。すでに様々な投資が行われており、不動産価格も上昇、オランダ経済は拡大を続けていた。この時点でバブルが発生する下地はあったのかもしれない。もともとオランダ人には珍しいチューリップの品種を高額で取引する習慣があったそうだ。


 1630年代に入るとチューリップの球根の値段がじわじわと上昇を始める。やがてチューリップ人気に火がついた。資産家から中流階級、さらには貧しい庶民までがチューリップ取引を始める。


 いったいチューリップの価格がどこまで上昇したのか正確な記録はない。当時の作家アブラハム・ムンティングはチューリップの球根1つと何が交換できたかを書き記している。以下にその一部を抜粋する。ちなみにイタリアのフィオリーノ金貨は、オランダではフローリン金貨と呼ばれる。


 小麦2ラスト  488フローリン

 肥えた豚8頭  240フローリン


 ラストは重さの単位で1ラストが1,800kgといわれる。つまり3,600kgの小麦と交換できたことになる。また仮に1フローリン金貨が12万円だと仮定すると5,800万円相当の小麦だということだ。


 肥えた羊12頭  120フローリン

 チーズ1,000ポンド 120フローリン


 仮に1ポンドが0.5kgだと仮定すると、500kgのチーズと交換できたことになる。 


 また、この他にも高価な球根にまつわる悲劇が伝えられている。3,000フローリンもする貴重な球根が玉ねぎと間違われて食べられてしまった話だ。球根の価格は1636年を通じて上昇を続け、チューリップの球根は、オランダにとってジン、ニシン、チーズに次いで4番目に取引高の大きな輸出品となった。


 この「チューリップバブル」は1636年から1637年の冬に頂点に達した。1637年2月とうとう球根の価格が急落。人々はパニックに陥り球根を売ろうとしたが、もはや買い手は現れなかった。チューリップ投機に熱狂した多くの人々が財産を失い破産した。オランダ経済も大きな打撃を受けて回復に長い年月を要したのだった。


 これが歴史上、最初のバブルと言われる『チューリップバブル』の顛末だ。今から約200年後の出来事となる。そして今この時代にバブルを起こせば、それは歴史上初めてのバブルとなるだろう。


 考えを巡らせる俺の目の前では、ジャンヌが青い瞳を輝かせて答えを待っている。


「平和で豊かな国を作ることだ」


 俺はゆっくりとした口調で答えた。


「ああっ!」


 俺の答えを聞いてジャンヌは手を組んで天を仰いだ。


「私も、私もです! ルグランさん」


 ついかっこいい答えを言ってしまった。いい人になってしまった。良心がチクチクと痛む。


「そうであれば本気で考えなければなりませんね。どうやってコジモさんを仲間にするかを!」


「そ、そうだな」


 興奮してテーブル越しに身を乗り出してくるジャンヌの勢いに圧倒される俺。


「ちょっとレオ、まずは私に相談しなさいよ。私は妻なのよ。つ・ま」


 アイヒも身を乗り出し俺とジャンヌの間に割って入ろうとする。


「ふたりとも落ち着いてください。注目を浴びちゃってますよー」


 傭兵レオンがジャンヌとアイヒをなだめようと立ち上がる。


 全く騒がしい奴らだ。俺の本当の目的も知らないで大騒ぎして。でもなんかいいな。なんだかお腹いっぱいな気分だ。素朴な料理、美味しいワイン、愉快な仲間……。もう十分じゃないのか? ふとそんな考えが頭をよぎった。

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