第141話 中世のダントン
【パリのレオ・ルグラン⑦】
「アイヒに何をした?」
俺の問いにコーションは肩をすくめる。
「何も。2週間ほど前からあの状態です。もしかしたら天使としての使命感が目覚めたのかもしれません」
「笑えない冗談だな」
「あなたも見たでしょう。あの光を。あれは彼女の本来の能力が発現している証拠です」
「だからと言って、性格まで変わるか。あれじゃあ本物の聖女様だ」
「ではもう一度、ふたりきりで話をしてみますか?」
俺はジルと同じようにアイヒにひざまづく自分を想像した。いやいやありえない。あいつは単なる酔っぱらい天使なのだ。
「いや、今はやめておく。少なくとも健康そうだったしな」
コーションは俺の答えに少し笑ったように見えたが俺は気づかないふりをした。タンプル塔の入り口でしばらく待っているとジルが妙にスッキリした表情で降りてきた。
「レオ、俺はやるぞ!」
ジルは興奮した口調で続ける。
「あのくそいまいましい、クルーセルもジャンヌと会えば己の不信心を悔いるだろう」
「おい、コーション殿の前だぞ」
「おっと失礼、失言だったな」
「今のは聞かなかったことにしましょう。私はあくまで中立の立場です。これで約束は果たせましたね。ではここで別れましょう。誰かに見られると良くない」
コーションはそう言うと素早く立ち去った。俺とジルはパリ市内の宿に泊まり裁判への対応を行うことになった。シャルル王から使うことが許可された資金もあったが、やる気になったジルが費用の大部分を負担してくれた。その後、何度かの予備審問が行われ手続きが粛々と進んでいった。俺とジルは表向き協力的なふりをした。
やがてジャンヌへの召喚状が出たと報告が入った。ジャンヌが出廷しての第1回審理の日程は、1431年2月21日と決まった。史実通りの日程だった。
それにしても、ジャンヌ(アイヒ)の変貌ぶりはどこからきたのか? アイヒが聖女を演じているだけなのか? はたまた天使としての自覚がでたのか? 確かめるすべはない。
こうなったら第1回審理のときにジャンヌがどう振る舞うかで判断するしかない。それまでに出来ることをやろう。
俺はジルと打ち合わせをしてから行動をおこした。まず俺たちが向かったのがセーヌ川北岸にある市庁舎だ。俺たちはパリ市に対して500リーヴル(約4,800万円)の寄付を申し出た。パリ市の衛生環境の悪化と物資の不足は深刻だ。イングランドが実質支配するパリは、治安も悪化していた。イングランドがローマ帝国の傘下に入った後はやや改善したが、それでもイングランド兵による略奪がたびたび起こっており、人口の減少が続いていた。
少しだけパリの歴史を振り返ろう。今から約80年前、エティエンヌ・マルセルという男が一時的にパリを支配下に置いたことがあった。マルセルは商人の家に生まれ、1350年にノートルダム大聖堂の参事会長に、1354年にはパリ商人頭となった。このパリ商人頭が当時の実質的なパリ市長といえた。フランス王、ジャン2世がイングランドとの戦費調達のため三部会※を招集したとき、マルセルは国王と対立して税収を管理する委員会設置を提案したという。
※注……三部会。フランスの中世から近代にかけて存在した身分制議会。第一身分である聖職者、第二身分である貴族、第三身分である平民で構成される。
ちなみにジャン2世は、ヴァロア朝第2代国王であり俺が仕えるシャルル7世の3代前の王様だ。マルセルはジャン2世の次の王様シャルル5世とも対立し、別のフランス王を即位させようと陰謀を巡らして最後は暗殺された。マルセルは後世の歴史で『中世のダントン※』と呼ばれている。
※注……ジョルジュ・ジャック・ダントン(1759~1794)。フランスの政治家。フランス革命時のジャコバン派指導者のひとり。反革命派を弾圧しロベスピエールと協力して恐怖政治を実行した。のちにロベスピエールと対立し断頭台で処刑された。
幸運なことにローマ帝国が推し進めた商業化政策により、パリ市でも再び商人の力が強まっていた。俺はフィリップ善良公からパリ商人頭への紹介状をもらっていた。商人頭と面談した俺は、寄付の申し出とともにフランス東インド会社株式への投資も勧めたのだ。
商談は大成功だった。商人頭からは寄付について大変感謝され、パリの商人たちはフランス東インド会社の株式を購入してくれた。もちろん善良公からの紹介状が威力を発揮したのは言うまでもない。俺はフランス東インド会社の事業においてジャンヌが重要な役割を担っていることを説明した。
実質的にフランス東インド会社の出資者となったパリ市の商人たちは、異端裁判の陪審員へ個別に働きかけを行ってくれると約束してくれたのだった。この頃から、フランス東インド会社の株式はじりじりと上昇を始めた。1株が10リーヴルだった株価は年が明けた1431年1月には、20リーヴルと2倍になっていた。
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