第139話 クルーセル陪審員長

【パリのレオ・ルグラン⑤】


 季節は冬になり、パリを寒波が襲った。パリに送った社員からの報告によるとコーションは約束どおり、ジャンヌを丁重に取り扱っているとのことだった。それでも心配だった俺は食料や生活必需品をジャンヌ(中身はアイヒ)あてに届けさせた。


 あいつのことだ、不摂生をして風邪とか引いていないだろうか? 元が天使なのだから大丈夫だとは思うが。そうだ、コーション(中身はジャンヌ)にジャンヌとの面会を求めてみようか。いやいや、これは完全に現代人の感覚だ。中世の異端裁判では疑いがかかった段階で罪人なのだ。もとより人権なんか存在しない。


 とは言ってもコーションが驚くべき現代的感覚を持っているの事実だろう。やるだけやってみようと思った俺は、コーションにジャンヌとの面会を求める書簡を送った。しばらくして面会を認める返事が返ってきた。正直驚いた。そんな決定をしてコーションは大丈夫なんだろうか? と逆に心配になる。


 来年(1431年)1月9日からジャンヌの予備審理が始まる。予備審理ではジャンヌ自身が出廷することはない。判事であるコーションと陪審員やその他の役職として選ばれた人々が集まり裁判の趣旨や進行方法について話し合われる。本人や弁護人が参加できない時点で非常に一方的で不公平なものになるのは想像に難くない。だだ、この時点で本来の歴史とは違ってきている。実際の異端裁判はジャンヌが火刑に処されるルーアンで行われるのだが、この世界線ではジャンヌはパリへ護送されており、裁判もパリで行われることになっている。果たしてこの変化は良いことなのか、悪いことなのか俺にはわからない。


 コーションは俺とジル・ド・レに予備審理への参加を求めてきた。そして同時にジャンヌとの面談できるように計らうとのことだ。そのどちらも極めて異例としか言いようがない。もしかして何か裏があるのかもしれない。


 そう考えていた俺のもとにテオから情報が入った。テオからの書簡によるとフィリップ善良公がパリ大学へ圧力をかけたそうだ。フィリップ善良公はイングランドやパリ大学からの強い要請でジャンヌをカトリック教会へ引き渡すことを承諾したものの、ヴァロア家との関係改善にマイナスになるのではと迷っていたらしい。


 そこにテオがフィリップ善良公のイメージが少しでも良くなるようにジャンヌに対する温情を示す方法をアドバイスしたとのことだ。だが、いくら善良公が圧力をかけたとしてもそれだけでパリ大学が譲歩するはずはない。やはりコーション個人の意思もはたらいているのだろう。


 年が明け予備審理が始まる数日前、俺とジル・ド・レは再びパリ市内へ入った。


「ジャンヌとはいつ会えるんだ?」


 待ちきれないという様子でジルが聞いてくる。


「ジャンヌの予備審理へ参加した後だ。タンプル塔へ行くことができるとのことだ」


「そうか、ならその予備審理とやらをとっとと済ませなきゃな」


「おい、ちゃんと打ち合わせ通り応対してくれよ。くれぐれも事を荒立てないでくれよ」


「わかってる。任せとけ」


 ジルが全く遠慮というものをしないので、俺もジルに対して気を使わないようになってきた。見方によっては裏表の無いまっすぐな人間のようにも見える。これが後の大量殺人犯になるとは信じられない。やはりジャンヌが火刑になったことがこの男を狂わせたのかもしれない。


 異端裁判の予備審理1回目は、俺がコーションと初めて会ったソルボンヌ学寮で行われる。学生への講義が行われる広間へ俺とジルが足を踏み入れると、ざわざわとしていた会場が一瞬静かになった。中央の演台を囲むように石造りの段差があり座れるようになっている。集まっているパリ大学の神学者や任命された公証人がすでに着席している。


「ルグラン殿、ジル殿、ようこそおいでくださいました。さあこちらへどうぞ」


 コーションが立ち上がって俺たちを案内してくれた。大勢いるパリ大学側の勢力と少し距離を置いた場所へ俺たちは着席した。敵意を込めた視線を向けてくるものや好奇の視線を向けてくるもの様々だが、俺たちが浮いている存在なのは間違いなかった。


 コーションは演台に戻ると、隣に座っている高級な法衣を身につけた中年の男に何かを耳打ちした。


「ほとんどの方が私をご存知とは思いますが、一部初めてお会いする方もいらっしゃるようです。私は今回の裁判において筆頭陪審員を務めます、クルーセルと申します」


 中性的な雰囲気の澄んだ声で男が言った。こいつがクルーセルか。俺は協力を依頼した知り合いのカトリック聖職者から、裁判で最もジャンヌへ厳しい態度をとるであろう人物としてクルーセルの名を聞いていた。クルーセルはパリ大学の総代でありコーションと並ぶパリ大学の中心人物だ。こいつが筆頭陪審員とは非常に厄介だ。


 クルーセルが指名した陪審員のひとりが、今回の裁判で交わされた書簡を読み上げ始める。ジャンヌを捕らえたジャン・ド・リュクサンブールへ感謝を述べる書簡や、ジャンヌをパリ大学側へ引き渡すことを認めたフィリップ善良公の書簡などが次々と読み上げられる。


 


 


 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る