第144話 ジャンヌの反論
【パリのレオ・ルグラン⑩】
俺の心配をよそにパラドックスについて語り始めるジャンヌ。だが広間にいる誰もがジャンヌの声に魅了されたように彼女の話に聞き入っている。
「アキレウスが亀に追いつく時間はどんどん小さくなっていくでしょう。この話の問題点はそこにあります。アキレウスが亀に追いつくまでの時間が無限に分割されるという前提を置いているのです。ところがよく考えてください。アキレウスが亀に追いつくまでの時間は有限なのです。手元の資料をご覧ください」
手元の資料だと? そんなものは……。と椅子の前に置かれた台を見るといつの間にか一枚の羊皮紙が置かれていた。
羊皮紙には現代の数学でよく見るグラフが書いてあった。縦軸が『距離』で横軸が『時間』になっている。グラフには傾きの角度が違う右肩上がりの直線が2本記入してある。角度が滑らかな直線には『亀』、角度が急な直線には『アキレウス』と注釈が入っていた。
アキレウスの直線が下から亀の直線を突き抜ける形で、2本の直線は交差している。現代人の知識を持っている俺は直感的にこのグラフの意味を理解できるが、果たして他の人間はどうなのか? そう思って隣にいるジルの方を見ると、ジルはボーッと羊皮紙を見つめていた。もしかしたらタンプル塔でジャンヌに会った時のような状態になっているのかもしれない。
「この図が表している通り、アキレウスの移動速度が亀を上回っていればふたつの直線が交わる点でアキレウスは亀に追いつきます。そしてアキレウスは亀を追い抜くでしょう。ゼノンのパラドックスの矛盾点はこのアキレウスが亀に追いつくまでの時間を無限に分割している点です。では次の図をご覧ください」
※ここから先は無限等比級数に関するややこしい説明になるので、興味がない人は読み飛ばしてください。
そう言われて羊皮紙に目を向けると、今度は難しそうな数式が書かれていた。アキレウスの走行速度をv メートル/s、亀の走行速度をr vメートル/sとする。また亀はアキレウスよりLメートルだけ前方のいるものとする。亀の走行スピードはアキレウスより遅いので
アキレウスの速度:vメートル/s >亀の速度:r vメートル/s となる。亀の速度はアキレウスの速度のr倍なので
0<r <1
である。速度のマイナスはないし、亀の速度がアキレウスの1倍より大きいと亀の方が足が速くなるからだ。両者が同時にスタートすると、アキレウスが亀のスタート地点に到達する時間は(L/v)sとなる。アキレウスが亀のスタート地点に到達した時、亀はどこにいるだろうか?
rv(亀の速度)×L/v(亀のハンデ距離/アキレウスの速度)=r×Lメートル
つまりアキレウスが亀のスタート時点に到達した時、亀は亀のハンデ距離のr倍の距離にいる。そしてアキレウスがその距離に到達するのはさらに(r L/v)s後であり、その時亀はrの2乗×Lメートル先に進んでいる。以後、これを繰り返していく。そうすると……
L/v+ r1×(L/v)+ r2×(L/v)+r3×(L/v)+・・・・
となる。式が無限に続いていくので、いつまで経っても亀はアキレウスの少し先を行っているように見える。この式は初項L/v、公比rの等比級数であり、経過時間の合計は
【1-r×(n+1)/1ーr 】×L/v
ここでn→♾️とすると、0 <r <1なのでrのn +1乗は0となる。つまり無限等比級数の和は
1/(1ーr)×(L/v)
となる。仮に亀の速度がアキレウスの半分だとすると、rは亀の速度がアキレウスの何倍かという数字なのでr=0.5(倍)となる。rに0.5を代入すると2×(L/v)となり、アキレウスが亀のスタート地点に到達した時間の2倍の時間で追いつくことになる。
結論から言うと、0<r <1という条件のもとでは無限等比級数は収束する(ある値に限りなく近づく)。ある値は有限な実数なので、アキレウスが亀に追いつく時間も有限な実数となる。つまり上限があるということだ。アキレウスが亀に追いつく時間に上限があるということは、どんなに時間がかかってもアキレウスは亀に追いつき、追い越すことを意味している。とてもややこしい話になってしまったが、ジャンヌの説明は概ね上記のような内容だった。
次の瞬間、陪審員の一人が叫んだ。
「人間の力は有限であり、神の力は無限ということですね」
「その通りです。私はそのことをそこにいる『哀れな子羊』に教えたかったのです」
なんだこれは? 何が起こっている? 周りを見渡すと陪審員たちは次々にひざまずき祈りを捧げ始めた。クルーセルはというと呆然とジャンヌを見つめている。ただひとりコーションだけは無表情でジャンヌを見ている。
「ああっ! そうだったのか。ジャンヌ、俺はなんと無知だったのだろう」
ニコラもひざまずくと、ジャンヌに向かってこうべを垂れた。ついさっきまで証人としてジャンヌを激しく非難していたニコラの変化はどう見ても異常だ。
「ひとつの嘘が7つの嘘を生む」
コーションが静かに言った。
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