第143話 無限の時間

【パリのレオ・ルグラン⑨】


「コーション判事。証人の出廷を申請いたします」


 クルーセルがコーションに向かって言った。証人だって? いつの間にそんなものを用意したんだ。俺とジルは顔を見合わせた。執行官が若い男を伴って広間に入ってきた。若い男は膝丈のチュニックを身につけてキョロキョロと周りを見回している。俺は男に見覚えがなかった。ジルの方を見るがジルも「知らない」というように首を横に振った。


「申請を許可します」


 コーションが言うと執行官が男を広間中央へと誘導した。


「証人は名前を述べてください」


 コーションが男に問う。


「ニコラ・メルローと申します」


 ニコラ・メルロー? ジャンヌの口からも聞いたことがない名前だ。コーションから宣誓を求められてニコラは聖書に手を置き事実を述べることを宣誓した。


「あなたとジャンヌの関係は?」


「私はドンレミ村の農民です。ジャンヌと私は婚約していました」


『婚約』という言葉に、広間内がざわめいた。正直、しまったと思った。史実でもジャンヌの婚約者を名乗る人物が婚約不履行でジャンヌを訴えていたのを思い出したからだ。『乙女』であるジャンヌが婚約などあってはならない。これは非常にマズい状況だ。


「被告ジャンヌへ問います。証人の証言は事実ですか?」


「事実ではありません。乙女である私が婚約などするはずがありません」


 ジャンヌはニコラの方を見ることもなく答えた。


「嘘だっ!」


 ニコラが叫んだ。


「君と僕は婚約したんだ。どうして僕の方を見ない!」


「証人は静粛にしてください。被告に対する発言は慎むように」


 コーションが冷たい声でたしなめると、ニコラは恥ずかしそうにうつむいた。


「まあいいでしょう。婚約の件はこれからゆっくりと調べることにしましょう。証人に問います。被告には何か変わったところがありませんでしたか?」


 クルーセルは芝居がかった口調で言った。


「はい……ジャンヌは、いにしえの怪しげな学問を学んでいたようです」


「ほう、怪しげな学問ですか。その学問についてジャンヌから直接聞いたことがありますか?」


「はい、古代ギリシャのアキレウスという男についての話を私に教えてくれました」


「どんな話ですか? 詳しく教えてください」


「アキレウスという男はとても足が速い男なのですが、そのアキレウスとノロマな亀が、かっけこの競争をするとアキレウスが負けるというのです」


 ――ゼノンのパラドックス※か!


 ジャンヌのやつめ、なんて余計な話をしたんだ。キリスト教と科学は折り合いが悪い。聖書に書かれていないことに触れる可能性があるからだ。しかもよりにもよってパラドックスだ。


 ※第35話参照。


「なるほど足の速いギリシャの英雄が、のろまな亀に負けると言ったのですね?」


「そうです。そもそも人間と亀がかっけこの勝負をして、人間が負けるはずがありません。私はそうジャンヌへ言いました」


「それに対してジャンヌは何といいましたか?」


「ジャンヌは地面にアキレウスと亀の絵をかいて私に説明しました。ああ……私はその説明について思い出すことができない。それでもそれが怪しげな話だということはなんとなくわかったのです」


 クルーセルと二コラのやりとりを聞いていた陪審員たちがざわめきだした。


「コーション判事、発言を求めます!」


 俺はたまらず叫んだ。


「許可いたします」


「ジャンヌの発言はエレアのゼノンが師であるパルメニデスを擁護するために語った理論に基づいています。決して怪しげな学問ではありません。」


 パラドックスの内容から話を逸らさなければならない。


「その理論とはどんなものですか?」


 俺の期待をよそにクルーセルはパラドックスの中身について質問してくる。


「存在は不動である。我々が運動していると認識しているものは実際は動いていないというものです」


「それは『怪しげな学問』ではないのですか? 今ここに集まった人々、通りを歩く人々、牛や馬なども動いていないというのですか?」


 俺は正直、困った。ゼノンやパルメニデスの理論をこれ以上説明できない。いやするべきではないのだ。


「私は『無限』について話をしたかったのです」


 ジャンヌが口を開いた。途端に広間が静かになる。ジャンヌの声が直接、頭の中に響いてくるように感じた。タンプル塔で会ったときのように、不思議な力でジャンヌに意識が引き寄せられる。


「亀が少し先から出発してアキレウスが追いかける。アキレウスが亀の出発した場所にたどり着いた時には、いかにノロマな亀でも少しだけ前に進んでいる。さらにアキレウスが亀が進んだ場所まで走ると、また亀は少しだけ進んでいる。またアキレウスが亀がいた場所まで進むと、またもや亀はすこし進んでいる……。アキレウスは亀に追いつけないのでしょうか?」


 いまや俺やジル、陪審員たち、クルーセルまでジャンヌの言葉を黙って聞いている。いや聞かざるを得ないのだ。それほど強い力がジャンヌから発せされているように感じられる。


「アキレウスが亀の位置まで進む時間は『無限』に増えていくでしょうか?」


 ジャンヌの言葉が俺の脳内で反響した。

 


 

 


 

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