第145話 マルティン・ルターの名言
【パリのレオ・ルグラン⑪】
俺の腰のあたりでブルブルと何かが震えた。天使ノートに着信があったのだ。俺は巾着袋からノートを取り出して最新のページを確認した。
『マルティン・ルターの名言』
ノートの1行目にそう書かれている。マルティン・ルター、宗教改革の中心人物としてあまりに有名な人物だ。1483年、ドイツのザクセン地方の村、アイスレーベンで生まれたルターは、両親の反対を押し切り修道院へ入る。やがてルターは大学で哲学と神学を教え始めた。当時、ドイツでは大々的に
贖宥状を買うだけで、罪の償いが軽くなるという考え方をルターは疑問視した。ついにルターは贖宥状の販売は間違っていると結論付け、有名な『九五箇条の論題』を発表した。ここにいわゆる宗教改革の火ぶたが切って下ろされたのである。
また、ルターは数々の名言を残している。なかでも有名なのは
『たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日わたしはリンゴの木を植える』
だろう。前向きな気持ちにさせてくれる素晴らしい名言だと言える。だが、ノートの2行目に書かれていたのは別の言葉だ。
『ひとつの嘘が7つの嘘を生む』
まさに今、コーションがジャンヌに向けて放った言葉だった。コーションはルターの存在を知っているのだ。
「ジャンヌ、あなたがゼノンのパラドックスについて語ったのは、純粋な信仰心からではないはずです。己の知識をひけらかしたかっただけではないのですか?」
文字を学び知識を蓄える前のジャンヌであれば、コーションの言葉をきっぱりと否定できるだろう。だが俺は知っている。フィレンツェでジャンヌは俺の裏をかいて交渉を行った。一度嘘をついてしまえば、その嘘を正当化するために新たな嘘をつかなければならない。そしてその嘘を隠すためさらなる嘘が必要となる。コーションはジャンヌの嘘を糾弾しているのだ。
「コーション様。私の知識は全て神の教えを広め実践していくためのものです。その証拠にイングランドとの戦いにおいて私はそれらの知識について語ることはありませんでした。その必要がなかったからです」
確かにこの世界線のジャンヌは史実通りに行動していたようだ。もし学んだ知識を使っていたならもっと賢いやり方があったかもしれないし、そもそもイングランドに捕らえられるような失敗もなかっただろう。
「お前がいう、その神の教えとやらはどこで学んだというのだ。お前が聖書を読めたというのか?」
クルーセルがジャンヌの力に逆らうように震える声で言った。
「神様は私に文字を学ぶようにおっしゃいました。私はその教えに従い文字を学び、聖書を読むことができたのです」
「では神はさきほどお前が語ったような怪しげな理論についても学ぶようにおっしゃったのか?」
「はい、来るべき時のために新しき知識を得るようにとおっしゃいました」
クルーセルは幾分落ち着きを取り戻したようだ。なんとかジャンヌの話から矛盾点を見つけ出そうと質問を重ねていく。だが、他の陪審員がジャンヌに魅了されてしまい誰もクルーセルに同調しないので、形勢は明らかに不利だ。
「コーション判事……本日の審理はこれで終了といたしましょう」
「そうですね。では次回の日程は追ってご連絡いたします」
こうして異端裁判の第一回審理はあっけなく終了した。俺やジルといった弁護人が出る幕のないジャンヌの完勝とも言える内容だった。果たしてコーションはこんな裁判を望んでいたのだろうか? とはいえ裁判は終了したわけではなく、陪審員長のクルーセルもこのまま引き下がるとは思えない。次回の審理に向けて備える必要があるだろう。
宿に帰った俺はジルと今後の方針について話し合った。
「ははっ、これなら楽勝だね。あの陪審員どもを見たか? ジャンヌの素晴らしさに今更気が付いても遅いってもんさ」
高価な白ワインを飲み干しながら、上機嫌でジルは言った。
「確かにそうだが、クルーセルには通じなかったようだぞ。もちろんコーションにも」
「クルーセルは相当ひねくれてるんだろうね。コーションは何を考えているのか全然わからん」
「それにジャンヌの行った行為は、一歩間違えば『魔女』の力を使ったと言われかねない危ないものだったと思う。つまり、『神』からではなく『悪魔』から人を魅了する力や知識を得たと断定されかねない綱渡りの作戦だということだ」
「そんなことあるか、と言いたいところだが、ジャンヌの話していた『アキレウスと亀』の話な。あれ意味がわからなかったよ。まさかお前理解できたのか?」
「ああ、少しだけな。だが俺だけじゃないコーションも理解しているはずだ」
ゼノンのパラドックスに対してルターの言葉で返す。コーションの正体である本物のジャンヌは未来に起こる宗教改革について理解しており、これは想定の斜め上をいっている。だがそれよりも驚くのはジャンヌの中身であるアイヒの変わりようだ。あのポンコツ天使が無限理論について語る。いったい何の冗談だ。
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