第35話 パラドックス

【ドンレミ村のジャンヌ】


 8月の収穫祭が行われて、領主様から村のみんなにご褒美としてご馳走が振るまわれた。収穫したライ麦と小麦はパンの材料になる。村を流れる小川の近くに水車小屋があって、小麦の脱穀と製粉が出来た。水車は領主様のものなので勝手に使うことは固く禁じられていたし、使うたびにお金を支払わないといけなかった。以前はそんなことは当たり前だと思っていたのだが、本を読むようになって疑問を感じるようになった。


 確かに水車を所有しているのは領主様かもしれない。だがその水車を利用して製粉した小麦粉で作ったパンを売って、利益を得ているのは領主様なのだ。利益を得ている人が、かかる費用を支払うべきではないだろうか? かつては農奴と言って奴隷身分の農民がいたことは知っている。だが私たちは奴隷ではないのだ。


 また、余計なことを考えていると思う。今でも神様に祈る時は無心になれる。これでいいのだという気持ちになる。だが――確実に私は変わってきている。いろいろなことに、なぜだろう? どうしてだろう? と疑問を抱くようになった。ジャック父さんは「全ては神様がお決めになったことだから仕方ないことだ」と言うが、そんなことはないと私は知っている。聖書にはそんなことは書いていないのだから。


 もうひとつ私は気に入らないことがあった。ジャック父さんが、勝手に私の婚約を決めてしまったことだ。相手は村の有力者の息子で以前から私によく話しかけてくる男性だ。背が高く顔もきれいなので村の娘にも人気がある。友達のオーヴィエットも「あの人かっこいい」と言っていた。私はこの間、ミサに参加した村人の前で「乙女ジャンヌ」を名乗り、生涯乙女であることを宣言したのに。


 そのことを気にしているので、婚約はあくまでも父さんと相手側の間だけの秘密にされているようだ。そのうち私が諦めて結婚すると思っているのだろう。いや、むしろフランスを救うという目的を諦めさせるために決めたのかもしれない。おかしな事にならなければいいんだけど。

 

 収穫祭で私がオーヴィエットたちと楽しく踊っている時だった。不意に後ろから声をかけられた。


「やあ、ジャネット。……よかったら一緒に踊らないか?」


 振り返ると顔を赤らめた若い男が立っていた。父が婚約者に決めた男だった。


「踊るよりもっと楽しいことがあるわ、聞きたい?」


 男の顔がほころんだ。


「もちろん、聞きたいさ」


 私の心に意地悪な炎が灯ったのを感じた。


「じゃあ、この問題に答えて。答えられたら一緒に踊ってあげる」


 何を質問されるのか? 男の瞳が期待に満ちている。


「古代ギリシャにアキレウスという、とても足の速い英雄がいたの。ある時、このアキレウスがノロマな亀と、かけっこの競争をすることになったわ。ただし、アキレウスはとても足が速いし、亀はとても足が遅いので亀がかなり前の地点からスタートしてアキレウスが亀を追いかけることにしたの。はたしてアキレウスは亀に追いつくことができるかしら」


 男はポカンとした表情になった。なんだそんな簡単な問題かという安堵の表情に思えた。


「そんなの簡単だよ。アキレウスの方がずっと足が速いんだからすぐに追いつくさ! さあ踊ろうぜ」


 私は失望した。よく考えもしないで答えをだすとは。


「そうかしら? これを見て」


 そう言いながら私は、木の枝を拾い上げると、それを使って地面に一本の直線を引いた。その直線の左端に丸を、さらに直線の真ん中にも丸を書いた。男は何を始めるのだと見守っている。


「直線の一番左に書いた丸がアキレウス。真ん中に書いた丸が亀。同時に走り出して、こういう風にアキレウスは亀を追いかける」


 私は左端にある丸から真ん中の丸まで、いまある直線の下にもう一本線を引っ張った。


「アキレウスが亀のいた地点まで走った時、亀はどこまで進むかしら?」


 私は男に尋ねた。男は首をかしげて少し考えた後に言った。


「もと居た場所から少しだけ右側に進むんじゃないかな?」


「そのとおり!」


 私はもう一本の線を直線の4分の1だけ右に伸ばす。男はその様子をただほーっと眺めている。


「では……アキレウスがさらに走って亀が進んだ地点までいった時、亀はどこにいるかしら?」


 男は一瞬、私の方に困惑した表情をむけたが、さっきより自信なさげな声で答えた。


「やっぱり、少しだけ右に進むよ。……でも、差はどんどん縮まるはずだ」


「そうね……確かに縮まるでしょうね。さらにアキレウスが亀の進んだ地点まで走ったら、亀はどこにいる?」


「ちょっとだ。ちょっとだけしか進まない!そしてアキレウスは亀に追い付くに決まってる!だって亀はノロマなんだ。ノロマなんだよ!アキレウスじゃなくても、俺だって追い付くさ!」


 私からの理詰め攻撃に男はキレてしまったようだ。


「いいえ、アキレウスが亀の居た場所まで進んだとき、亀は常に少しだけ前に進んでいる。どんなにノロマな亀でもね」


 そう言って下側の線を全体の8分の1だけ右に伸ばした。男の顔は青ざめていた。唇はプルプルと小刻みに震えている。


「――アキレウスも、あなたも、ノロマな亀に追い付けない」


 私が感情のこもってない声で言うと、男は首を横に振ると、くるりと背を向けて行ってしまった。


 ――ゼノンのパラドックス。この話は古代ギリシャの哲学者ゼノンが時間と空間の実在性を否定するために使ったそうだ。パラドックスとは、一般に正しいと思われることに反することを言う。


 もちろん現実には、アキレウスはすぐに亀に追い付くだろう。だがそれを上手く説明できない。この質問に答えられる人間なんていないだろう※。

 

 ※注 現代では、高校の数学で習う無限等比級数の和が一定の値になることで説明できます。

 

 ゼノンのパラドックスにはもう一つ有名なエピソードがある。『飛んでいる矢は止まっている』というものだ。今、弓から矢が放たれたとする。当然、矢は的に向かって飛んで行き、的に命中するだろう。たが、飛んでいる瞬間をごく短い時間――1万分の1、10万分の1と、どんどん小さい単位で区切っていくと、いずれ矢は静止する瞬間が現れる。


 つまり無限に分割された時間の単位で静止している矢は、分割された時間の集まりである全体の時間においても静止していることになる。――飛んでいる矢は止まっているのだ。


 私はイヤな女だ。本で得た知識をこんなことに使うなんて。物事を考えようとしないあの男が、少し前の自分を見てるようで不快だったのだ。だからと言ってこんなやり方をする必要はなかった。一緒に踊るのが嫌なら、ただ断ればいいだけなのに。


 私は、例の手記をさらに読み進めた。


『1324年、モレー総長たちが火刑に処せられてから既に10年がたった。ついにマリ王国との仲介者から情報が入った。国王マンサ・ムーサがメッカ巡礼に出発したとのことだ。マムルーク朝の首都、カイロまで行くことが出来れば黄金を手に入れることができるとのことだ』


 この手記は時系列に沿って書かれていない。普通の日記が書かれている余白にいきなり重要な記述が書き込まれているため解読には時間がかかる。


『やった! 成功だ。マンサ・ムーサ王はカイロで大量の金をばら撒いた。そのうちのかなりの金を買い集めることが出来た。金の価格が暴落することを恐れたイスラム商人が手放したのだ。信用できるかつての同僚たちと一緒に金を運ぶことにしよう。私の仕事もあと少しで終了だ――」


 手記の文章からは長年の苦労が報われるという安堵の気持ちが伝わってきた。

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