第22話 クレオパトラ

【ドンレミ村のジャンヌ】


 シモン司祭が言うにはラテン語を学ぶには、ローマという国について学ぶ必要があるとのことだ。ローマが建国されたのはイエス様が生まれた時よりも750年も前だそうだ。全く見当もつかない。教皇様がいるイタリアにディベレ川という川があり、アルバ王国という国の権力争いに巻き込まれてこの川に流された双子――ロムルスとレムスが狼に育てられた後、羊飼いの夫婦に拾われる。やがて自分たちがアルバ王国、ヌミトル王の娘レア・シルウィアの息子だと知ったロムルスとレムスは自分達を殺すように命じたヌミトル王の弟、アムーリウスを打倒する。


 新しい王国をつくるためにアルバ王国を後にした2人はやがて対立し、ロムルスがレムスを破った。ロムルスはその後都市を建設しローマと名付けた。


 とまあこのように言い伝えられているのだが、司祭様が言うにはこのへんはかなり怪しいとのことだ。はっきりしているのはローマを建国したのはラテン人という人たちで、その人たちが使っていた言葉がラテン語だということだ。


 ラテン語はラテンアルファベットという文字で書く。フランス語のファルファベットとは発音がかなり違う。また男性、女性、中性という三つの文法上の性別があってややこしい。人や動物を表す名詞は男女両方、国や都市は女性、植物や鳥は女性、山や川や風は男性、とまあこんな風だった。ラテン語にはフランス語のように冠詞がない。なのでその名詞が単数なのか複数なのか男性なのか女性なのかは文脈から判断するしかない。


 こんな難しいことを自分の頭で考えていることも信じられない。一日中、ラテン語とフランス語のことを考えて勉強してやっと理解できるようになった。


「ジャネット、信じられないよ。君は奇跡だ。こんなに早く知識を自分のものにするなんて!」


 ある日、司祭様が私に言った。


「司祭様の教え方が素晴らしいのです。教える側と学ぶ側では教える側が何倍も難しいのですよ」


 私の答えに司祭様はなぜか目を見開いていた。ちょっと生意気な言い方だったかしら? 以前の私ならこんな言い方は絶対しなかっただろう。


『Gallia est omnis dīvīsa in partēs treīs, quārum ūnam incolunt Belgae,aliam Aquītānī, tertiam quī ipsōrum linguā Celtae,nostrā Gallī appellantur』


「さあ、ジャネット、この文章を読んでごらん」


 今日は司祭様が選んだラテン語の本を読んでいくのだという。


「ガリアは……全体が、3つの……地域に……分かれている。そして……その1つにはベルガエ人。……もう1つにはアクィタニー人……、またもう1つには自らをケルタエ人と呼ぶ、我々が呼ぶところの……ガリー人が住む」


 つっかえながらもなんとか読み切った私を見て、司祭様はニッコリと微笑んだ。


「これはね。最も有名なローマ人と言ってもいい――ガイウス・ユリウス・カエサルの書いた著作『ガリア戦記』※の冒頭部分だよ」

 ※注 当時の題名は「ガイウス・ユリウス・カエサルの業績に関する覚書」でしたが、ここでは「ガリア戦記」と表記します。


「ガリアとは何です?」


「ローマ人が呼んでいたガリアとは、イタリアの北部、そして私たちのいるフランス全土を指している」


「意味がわかりません。フランスがガリアだなんて。それにベルガエ人とか、ケルタエ人とか、フランス人じゃない人たちが住んでたなんて」


 私は口をとがらせて言う。司祭様は困ったような笑みを浮かべた。


「そうだね。その事についてはおいおい説明していくことにしよう」


 最初は「ガリア戦記」の内容に不満を持っていた私だったが、少しづつ読み進めるとともにすっかりその面白さのとりこになってしまった。このカエサルというローマ人の文章はとてもわかりやすい。とても今から1400年以上昔に書かれたとは思えない、みずみずしさを感じる。


 途中から自分ひとりで読み進めて、読み終わった時にはすっかりカエサルのファンになっていた。


「司祭様、カエサル様はこの後どうなったんですか?」


 カエサル様のことだ、きっと世界があっという偉業をなしとげて栄光に輝く生涯を送ったに違いない。いや、そうでなければならない。


「この後、ローマはカエサル派とポンペイウス・元老院派にわかれて内戦に突入した。カエサルは法律で越えることが禁じられていたローマの防衛線、ルビコン川を渡りローマに侵入したんだ」


 すごいすごい! さすがカエサル様だ。その大胆さに憧れてしまう!


「虚をつかれたポンペイウスはギリシアに逃れ、カエサルはローマを平定することに成功した。ギリシアに上陸したカエサルはポンペイウスを破り、ポンペイウスはエジプトに逃れた」


 エジプト? 知らない土地の名前だ。後で調べておこう。


「ポンペイウスは、エジプト上陸前にエジプトの王によって殺された。エジプトに上陸したカエサルはここで絶世の美女、クレオパトラ7世と出会う」


 えっ? 絶世の美女? 想像もしてなかった展開だ。


「カエサルは、クレオパトラ7世と現王の弟側について戦い勝利した」


「まさか、クレオパトラが美女だったから味方したんじゃないですよね?」


 私はむきになって、司祭様にたずねた。カエサル様が女性を外見で判断するわけがない。それこそあってはならない。


「それはわからない。だがクレオパトラは美貌だけではなく知性と教養もずば抜けていたと言われている。9ヵ国語も話すことができ、あらゆる学問を学んでいたようだ」


「そうですか……」


 みじめな気分だった。どんなに頑張っても私はクレオパトラにはなれない。カエサル様は私など見向きもしないだろう。


「どうしたんだい? ジャネット」


 唇をかんでうつむいた私を見て司祭様が声をかけてくれた。


「私は、無力です。クレオパトラのような美貌も……、知性もない」


「顔を上げなさい、ジャネット」


 司祭様が静かに言った。


「クレオパトラが簡単に彼女の地位を築き上げたと思うかい?」


 それから司祭様は、彼女がアレキサンドリアの図書館でいかに勉学に励んだのか、また自身の美しさを保つためにどれほど気を使っていたのかを丁寧に教えてくれた。


「カエサルに会うために彼女は、自分を絨毯じゅうたんに包ませてカエサルへの贈り物として届けさせたんだ」


 そうか、そこまでしたのか。彼女も必死だったのだ。私は顔を上げて司祭様の方を向いた。


「それに……」


 司祭様は優しい声で続ける。


「クレオパトラに負けないぐらい、ジャネットも可愛らしいと私は思うよ」


 私は恥ずかしさで顔が火照るのを感じた。司祭様は私を元気付けようと励ましてくれているのだろう。その気遣いがうれしかった。


「ありがとうございます」


 私は司祭様の目をまっすぐ見て言った。カエサル様に認めてもらうためじゃない。私は私の信念に基づいて行動する。そしてクレオパトラのように自分の使命をはたす。私は変わるのだ。


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る