第55話 ボルジア家

【ドンレミ村のジャンヌ】


 もう何日も白い部屋には足を踏み入れていない。林のたて穴までは行くのだがどうしてもその先へは行けない。自分の考えたことが怖かったのだ。おそらくあの書棚にあった本は未来に起こることが書かれているのだろう。あれは神様の言葉なのだ。私は己の欲望を抑えられずに神様が私にお与えくださった以上の知識を手に入れようとした。


 私は、七つの大罪のひとつ「強欲」を犯したのではないか? 神様はこの罪深い私をお許しくださるだろうか?そんな考えが頭をグルグルと回り生きた心地がしない。


 ああっ! 神よ! お許しください。 林を出た道端で、私は必死に祈った。


「ジャンヌ!」


 祈りを捧げる私の背後で、聞き覚えのある声がした。振り向くと婚約者のニコラが立っていた。


「なんだ、ニコラか」


「なんだはひどいな……」


 ニコラは困ったような表情で頭をかいている。私は彼に依頼した要件を思い出した。


「何かわかった?」


「ジャン・ミネ司祭のことかい?」


 私は無言でうなずいた。


「それが変なんだ。ヴォークルールの教会や商業ギルドに立ち寄って、ジャン・ミネ司祭のことを聞いたんだけど、誰もミネ司祭を見てないし、そもそも司祭がヴォークルールに来たという話も聞いたことがないって言うんだ」


「どういうことなの?」


「おそらく、ジャン・ミネ司祭はヴォークルールへは行っていないんじゃないかな」


 そんなバカな! シモン司祭が嘘を言っているというのか? あの優しいシモン司祭が私に嘘を……。いやまだそうだと決まったわけじゃない。ニコラが調査をサボっただけかもしれない。


「わかったわ」


 もうそれ以上、ニコラに用はなかったので急いで家の方に向かって歩き出す。だが、そこで思い直して振り返った。


「ありがとう」


 ニコラの表情がぱあーっと明るくなるのが見えた。


 家に帰ると母さんの料理を手伝いながら、父さんが帰ってくるのを待った。しばらく待っていると玄関のドアが開いて父さんが帰ってきた。


「お帰りなさい」


「ああ、ただいま」


 村の集会へ行っていた父さんは少し疲れているようだ。私は壺から木のカップにエールを注ぐと父さんのところへ持って行った。


「ありがとう、ジャネット」


 私は父さんがエールを飲み干すのを待ってから、何気ない調子で言った。


「ニコラがヴォークルールへ行ったんですって」


「そう言えばメルローさんがヴォークルールへ行くって行ってたから、ついて行ったんだろう。最近、ニコラとは仲良くしてるみたいだな」


「そんなんじゃないわ。それよりも父さんはヴォークルールへ行く用事とかないの?」


「今のところないけど、なんでそんなことを聞くんだい?」


「ううん、何でもない」


 話はそこで終わった。手詰まりだ。今まではこのドンレミ村が私の世界の大部分を占めていた。だが、さまざまな書物を読むことで私の世界はどんどん広がり、フランスを飛び越え、イタリア、神聖ローマ帝国、果てはエジプト、マリ王国にまで到達した。


 次に私をとらえたのは、書物で読んだ国や地域をこの目でじかに見てみたいという欲望だった。この間、白い部屋で自分の欲望を抑えられず後悔したばかりなのに、本当に私はどうかしている。だが現実問題としてフランスを救うためには広く世界のことを知る必要があるだろう。


 もしかしたら、神様がおっしゃる『西からの旅人』が私を新しい世界へ連れ出してくれるのではないか? そんな期待を抱かずにはいられない。


 その前に……と思う。ジャン・ミネ司祭のことはハッキリさせておきたい。このままではシモン司祭への疑念が大きくなる一方だ。出来ることなら、自らヴォークルールに行って確かめたいところだが、父さんが行かないのでは難しそうだ。何か良い方法はないだろうか?


 ダメだ、何も思いつかない。やはり今できることを続けるしかない。


 私は再び、林のたて穴へ向かった。少しでも状況を進めるには新しい知識を身につけるしかない。白い部屋へ行こう。しばらく入ってなかった白い部屋だが、特に前と変わった様子はない。掃除をしていないが埃もなければゴミも落ちていない。書棚には相変わらず本がいっぱいあるが、今度は手当たり次第手に取るようなことはしない。


「神様、今の私に必要なものをお示しください。どうかこの迷える子羊をお導きください」


 私は神様に祈った。やがて頭がスッキリして、ある本に視線が吸い付けられた。


『ボルジア家』


 著者はアレクサンドル・デュマ。1802年生まれだが、もう深く考えないことにする。『君主論』を書いたマキアヴェッリさんが理想の君主としたもうひとりのカエサル、チェーザレ・ボルジアとその一族について書かれたもののようだ。


 私は確信した、チェーザレの人生を学ぶことが私の目的を果たすために重要なのだ。


『ボルジア家』は、もちろんチェーザレのことが主に書かれているのだが、同じくらい重要な人物として、チェーザレの父親、ロドリゴ・ボルジアについても触れられている。チェーザレはロドリゴが愛人に生ませた子供なのだ。


 ――コンクラーベ


 ローマ教皇を選出する選挙のことをこう呼ぶ。ロドリゴは、このコンクラーベを残り2人の候補と争って勝利した。晴れて、ローマ教皇アレクサンドル6世として即位した。


 問題はその手段だった。選挙方法は時代によって変化するが、基本的に教皇の最高顧問である枢機卿すうききょうの投票によるものとし3分の2以上の得票を必要とする。ロドリゴと残りふたりの候補、アスカニオ・スフォルツァ枢機卿とジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿のうち、ローヴェレ枢機卿がイタリア人の支持を集めており当初は有利と思われていた。だが、この時すでにスフォルツァ枢機卿は金品で買収されていた。


 また、それ以外の多くの枢機卿がロドリゴにより買収されており勝負は決した。私は衝撃を受けた。ローマ教皇になられる方がまさかそのような方法を使って教皇の地位を手に入れるとは。これはイタリアだけのことではないだろう、私たちのフランスでも同じなのだろうか? 私がお救いするべきシャルル王もそうした策を用いなければイングランドに勝利できないのであろうか?


 もしそうなら、私には王をお救いする本当の力がないことになる。私はおぼろげながらシャルル王をお救いする計画を思い描いていた。シャルル王にお会いして、私が神様からのお告げでフランスを救うことを使命としていることをお伝えする。その上で王様の兵士を率いて神様の名のもとにイングランド兵の領地へ向かって進軍する。


 それだけでうまく行くと思っていた。神様の御意志なのだ失敗するはずがない。だが、神様は私に「新しい知識」を身につけるように命じられた。それはつまり、私に欠けているものがあるということだろう。かけているものをチェーザレから、学べとということなのだ。例えそれが私にとって受け入れ難いものであっても。

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