第44話 新しき知識

【ドンレミ村のジャンヌ】


 婚約者の男はまだ諦めていないようだった。男は前回、私のパズルから逃げ出したことを詫びてきた。だが私はそっけない態度で返した。男に構っている暇はない。様々な言語の習得と一般教養の学習で忙しかった。それに手記の解読もしなければならない。


 次に聞こえてきた神様の声は具体的かつ不可解なものだった。


『書庫の秘密を知り、新しき知識を得るのです。いずれきたる時のために』


 フランスを救う、イングランド軍を駆逐くちくする、文字を学ぶ……神様のお告げにどんどん不穏なものが混ざっていくのを感じる。だが、私の意志は揺るがない。私は変わると決めたのだから。


 書庫の秘密を知るとはどう言う意味か? まずそのことを考えた。書庫とは当然、教会の地下室を指すのだろう。村で唯一、書物がある場所なのだから。あの地下室に何か秘密があるというのか? あの地下室でテンプル騎士団の手記を見つけた。それだけが秘密ではないというのか? もっと他に隠されたものがあるというのか?そしてその秘密を知ることが出来れば新しい知識を得ることができる。私は興奮で身が震えるのを感じた。


 いつの間にか私は、新しい知識を得ることが喜びになっていた。もっと……もっと知りたい。貪欲に知識を求める心に歯止めがきかない。家族や友達と話す内容が物足らない。話を合わせるのが苦痛になってきた。代わりに私は本と対話する。本は私の欲望に応えてくれる。


 いつものように合鍵を使って教会の地下室へやってきた私は、改めて地下室をぐるっと見回した。この部屋に秘密があるのだ。そもそもこの部屋自体が秘密なのだから、秘密の秘密っていうやつだ。今日、シモン司祭は所用でヴォークルールへ行くとのことで教会には誰もいない。地下室の秘密を探るなら今日しかない。


 部屋の中央にあるテーブルと椅子を調べてみるが、特に変わったことろは見当たらない。私のように椅子の足をくり抜いて何か隠していないかと調べたが、さすがに何もなかった。次に壁一面を占めている本棚を調べる。本を1冊、1冊取り出して本に異常がないか、本棚の奥の壁に何かないか調べる。


 本を取り出すたびにその本の内容が気になってしまい、ついパラパラとめくってしまう。いけないこれでは作業が進まないではないか。


 『コンスタンチノープル征服記』※

 

 ※注 中世フランスの歴史家ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン(1148〜1213)が自ら従軍した第4回十字軍によるコンスタンティノープル征服について記録した書物。

 

 これはとても面白そうだ。今から200年ほど前の歴史家が書いた十字軍に関する書物だと思われるが、まだ読んでいないので詳細はわからない。


『年代記』※


 ※注 中世の年代記作家、ジャン・フロワサール(1337頃〜1405頃)による百年戦争前半の具体的な出来事について記述した書物。


 これは、一部読んだのだが今も続いているフランスとイングランドの戦争について知ることができる素晴らしい書物だ。


 そして次は……いやいやいや。本当にいい加減にしないと。未練タラタラで本を閉じる。その後も本を取り出しては、棚の奥を調べるという作業を続ける。壁の一面を調べ終わり、次の一面に取り掛かる。大きめの写本を取り出した時だった。本が収納されている木製の書棚の奥に正方形の切れ込みが入っているのが見えた。板が取り外せるように指を引っ掛ける窪みがついている。


 これは! 急激に胸の鼓動が激しくなるのを感じる。窪みに指を引っ掛けて手前に引っ張ると薄い木の板が外れ、正方形の穴が姿を現した。穴の奥には周りの石壁とは違う色で出来た正方形のタイルがはめ込まれている。教会の床にあった秘密の扉を開くための仕掛けに似ている。だとすれば――


 私は、タイルを指でぐっと押し込んだ。ガチャと金属が擦れるような音が地下室に響く。続いて、ギーと擦れるような音とともに書棚が扉のように半回転した。壁に対して書棚が垂直になり書棚の左右にポッカリと空間が開いた。壁から燭台を取り外し、空間の奥を照らしてみる。どうやら奥に続く通路になっているようだ。


 まさか、まだ奥に続く秘密の通路があったとは、一体この教会はなんなのだ。こんな田舎の教会になぜこんな秘密の通路を作る必要があるのだろう? ざわざわと心がざわめく。シモン司祭はこの通路の存在を知っているのだろうか? 通路の奥は先で緩やかにカーブしているようで先がどうなっているかここからは見えない。だが、これが神様のいう書庫の秘密であることは間違いないだろう。であれば行ってみるしかない。


 私は、書棚の横をすり抜けて暗い通路へ足を踏み入れた。蝋燭の炎で慎重に足元を確認しながら、そろそろと進んでいく。10メートルほど進むと鉄製の扉に突き当たった。扉の表面には見たことのないような紋様が刻まれており、同じく鉄製の取手が付いている。耳を澄ませてみるがシーンと静まり返り何の物音もしない。


 ふぅーと息を吐き出し、深呼吸する。この扉の先には一体何があるのだ? 神様は私に何を見せようとしているのだろう? 迷っても仕方がない、私は取手をつかむと力を込めて引いた。扉は意外なほど軽くすんなりと開いた。


 ――真っ白だった。何もない真っ白な部屋。蝋燭の灯りとは全然違う白く明るい光が目の前を覆い一瞬めまいを感じた。大きい部屋だと思った。貴族の住む、お城の大広間に来たのだろうか? だがここはドンレミ村の中のはずだ。貴族のお城などありはしない。ふと村の近くにある『妖精の樹』のことが頭をよぎった。もしかしたらこれは妖精が私に見せているまぼろしなのではないか?


 一体この部屋はどれほどの広さなのだろう? そもそも部屋なのだろうか? 部屋を区切る壁が見えない。頭が混乱している。熱にうなされたようにフラフラと進んでいく。突如としてまるで霧が晴れたかのように何かが前方に出現した。近づいてみるとそれは巨大な書棚であった。私の背の高さを遥かに超える位置まで本が収納されている書棚の列。


 ああっ! そうか……ここはアレキサンドリアの図書館に違いない。クレオパトラが勉学に利用した巨大な図書館。だとするとここはエジプト? そんなバカな!


 目線と同じ高さにある棚に近づいて収められている本を観察する。これまで見た写本とは全く違う装丁の本。一冊の本に目が止まった。


『算術、幾何、比及び比例全書』


 最近習い始めたイタリア語で書かれている。書かれたのは……いや……なんだ?


 1494年ですって!


 これは書き間違いだろう。今年は1424年なのだから。それにこの特徴的な文字は何だ? 同じアルファベット文字同士が全く同じに見える。人間が書いたのならこうはならない。木工印刷とも違う。どうやったらこんなことが出来るのだろう。紙の質もかなりいい。何もかもが異質の書物だ。著者は――


 『ルカ・パチョーリ』


 イタリア人で1445年生まれと書かれている。まだ生まれていない人物が書いたというのか。それとも架空の人物なのか? ともかくサッと目を通してみる。タイトルの通り私の大好きな数学と幾何について詳しく書かれているようだ。第一部第九篇にある「記録および計算について」という見出しが気になった。


 『ヴェネツィア式簿記』


 『会計を行う几帳面で勤勉なものを神は認めてくださる』


 目に飛び込んでくる刺激的な言葉。神様がおっしゃった「新しき知識」とはこれではないのか! 


  


 


 

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