第26話 乙女ジャンヌの秘密

【ドンレミ村のジャンヌ】


 次に聞こえた神様の声は私を悩ますことになった。

 

『ジャンヌよ。自ら『乙女ジャンヌジャンヌ・ラ・ピュセル』と名乗るのです』


 私が神様の声を聞いたという噂は、すでに村のなかで広まりつつあったので、私が自分を『乙女ジャンヌジャンヌ・ラ・ピュセル』と名乗ってもみんなは受け入れてくれるのかもしれない。とは言ったもののどんなタイミングで名乗るか? なかなか難しい問題だ。


 そんな私にシモン司祭が助け船をだしてくれた。大勢の村人が集まっていたミサでの出来事だ。滞りなくミサが終了したところで、司祭様が村人に呼びかけた。


「みなさん! 今日は皆さんにお伝えしたいことがあります。もうご存知かとは思いますが、今日ここに神の声を聞くことのできる少女がいます。彼女は神に身を捧げ生涯、乙女であることを誓ったのです」


 村人の間にざわめきが広がっていった。事前に司祭様とは打ち合わせをしてあったものの、やはり緊張する。私は立ち上がってみんなに呼びかけた。


「神様は私におっしゃいました。フランスを救えと!」


 その途端にざわめきはおさまり、水を打ったように静寂がおとずれた。村人の視線が私に集中する。


「……この村にもイングランド軍が迫っています。村の皆さんのため、シャルル王のため、そしてフランスのために、平和を取り戻さなければなりません。そのために私は神様に身を捧げることを誓います! 生涯乙女であることを誓います!」


「さあ、乙女ジャンヌジャンヌ・ラ・ピュセルと共に祈りましょう!」


 シモン司祭の呼びかけと共に村人は次々とひざまずいた。私もひざまずいた。高揚感に包まれながらひたすら祈った。その日から村の人々は私のことを乙女ジャンヌジャンヌ・ラ・ピュセルと呼ぶようになった。ただ、父ジャックは乙女ジャンヌジャンヌ・ラ・ピュセルとは呼ばなかった。


「ジャネット、お願いだもうやめてくれ。お前は普通の娘だ。フランスを救うなどバカげたことは言わないでくれ」


 父が私を心配して言ってくれているのはわかっていた。


「お父さん、心配しないで。これは神様の御意思なの。神様のために私ができることをやるのよ」


「しかし……お前ひとりでいったい何が出来るっていうんだ」


「私はひとりじゃないわ。シモン司祭も応援してくれるし、村のみんなだってきっと応援してくれる」


 父は何も言わなかった。いや何も言えなかったのだろう。


「Vivere militaire est(ウィーウェレ・ミーリターレ・エスト)」


 思わず私はつぶやいた。


「何だって?」


「『生きることは戦うことだ』って言ったんだよ」


 ローマ帝国の政治家、セネカの言葉だった。


「司祭様から教わったのか?」


 父が聞いた。今度は私が何も言わなかった。


「ジャネット……お前はどんどん変わっていく。私の手の届かない所へいってしまう」


「そんなことないわ。私はいつだって父さんの娘、ジャネットよ。私を信じて」


「危ないことだけはしないと約束してくれ。ジャネット」


「ええ、約束するわ、父さん」


 果たしてこの約束が守られることはあるだろうか? これから先のことを考えると、とても守ることが出来ない約束をしてしまったのかもしれない。


 父さんの心配そうな顔をみると罪悪感がチクチクと胸を刺激してくる。たが、これは私の人生なのだ。私自身で決めなければならない。後悔しないように――


 私はいつものように、教会の地下室にやってきた。最近は司祭様から鍵を預かって先に部屋に入ったりもする。今日は、司祭様に用事があり少し遅れて来られるそうだ。


 さて、今日はどの本を読もう? このところ堅苦しい哲学書ばかりよんでいたから物語でも読もうかしら? それくらいの息抜きなら神様もお許しくださるだろう。


『ガウェイン卿と緑の騎士』


 そうだ、これにしよう。前から気になっていたのだ。それにこの物語は英語で書かれている。最近、学び始めた英語の習得にも役立つだろう。アーサー王のおいで忠義の騎士――ガウェイン卿。忠義というところに私は強くひかれた。ドンレミ村の近くにやってくるのは忠義の騎士とは程遠い、盗賊まがいの兵士たちだ。騎士道を重んじる本当の騎士とはどんな人たちなのだろう。


 私は手を伸ばして本を引き出した。バサリと音を立てて床に何かが落ちた。


 えっ、何だろう?


 慌てて床に目をやると、紙の束のようなものが落ちている。私は手に取った本をテーブルに置くと紙の束を拾い上げた。本ではない。よく見ると糸でじられた冊子のようだ。冊子には破り取られたような跡があり、それぞれのページには文字が書かれている。


『われわれテンプル騎士団はどこで間違ったのだろう? いつの間にか味方がいなくなっていた。まず教会から嫌われていたことが問題だ。せめて十分の一税※ぐらいは払うべきだったのではないか? 十字軍という大義名分がなくなった今、我々も変わるべきだったのではないか?」

 ※注 教会が全キリスト教徒を対象として収穫物の10分の1を徴収した税


「われわれテンプル騎士団」? テンプル騎士団が100年ほど前、実際に存在した騎士修道会の名前であることはわかる。だとすればこれは騎士団員が書いたものなのか?


『仲間たちがフィリップ王に逮捕されてから既に5年がたった。裁判は長く続き、しかも状況は悪化する一方だ。こうしている間にも騎士団の財産はフィリップ王にどんどん奪われていく。仕方がない、それらは王にくれてやるしかない。だが決して知られてはならないものについてこの手記に記すこととしよう』


 私は手記の内容に興味をそそられた。この手記はとても貴重なものなのではないか? 決して知られてはならないものとは何だ? 続きを読み進めようとした時だった。教会の床板が動く鈍い音が聞こえてきた。司祭様がいらっしゃったのだ。続いて階段を降りてくる足音。心臓の鼓動が激しくなる。どうしよう? 正直にこの手記のことを話すべきか? 私は司祭様を信頼している。


 だが……


 私は頭に被っている頭巾を脱ぐと、後頭部と頭巾の間に手記を挟み込むように入れ再び頭巾を被った。頭巾の紐はきつめに縛り手記を固定した。幸い、手記は本よりも小さく薄かったので大きめの頭巾と頭の間にすっぽりと収まって、違和感のない形となった。――なぜこんなことをしたのだろう? なぜかは説明できないが直感が手記を隠すことを命じていた。


 やがて部屋の扉口からシモン司祭が姿を現した。


「待たせてしまったね、ジャネット」


 私はすぐにでも立ち去って手記の続きを読みたかったのだが、怪しまれるかもしれないという気持ちからそうすることが出来なかった。


「大丈夫です。今この本を読んでいたところなんです」


 そう言ってテーブルの上に置いてある『ガウェイン卿と緑の騎士』を指し示した。


「おお、円卓の騎士のひとりガウェイン卿の物語だね。ジャネットは騎士道物語が好きなのかい?」


「ええ、忠義の騎士って、とても素敵だと思います」


 努めて平静を装って答えるが気が気ではなかった。それでも何とか司祭様の授業を乗り切り地下室から地上へ上がった。地上への階段を登るときも司祭様に後ろ姿を見られないように、わざと後から登った。司祭様に隠し事をしているという罪悪感と気になる手記への好奇心で私の心はいっぱいになっていた。


 神様に感謝の祈りを捧げてから司祭様へお別れの挨拶をした。


「さようなら、ジャネット」


「さようなら、司祭様」


 そう言って教会から立ち去ろうとしたそのとき


「あっ!」


 と司祭様が声を上げた。私はビクリとして立ち止まった。背筋から冷たい汗が噴き出すのを感じる。心臓は激しく脈打っている。私が恐る恐る振り返ると司祭様は言った。


「そうだった……さようなら、乙女ジャンヌジャンヌ・ラ・ピュセル


 私は安堵のため息をついて歩き出した。

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