第98話 新しいお金

 バルディ家、ペルッツィ家が没落したことにより急速に勢力を伸ばしたのがメディチ家だった。コジモの時代に隆盛を誇ったメディチ銀行だったが、息子のピエロ、孫のロレンツォの時代に衰退を続ける。特にロレンツォは銀行経営の才能がなかった。ロレンツォは政治権力の拡大にしか興味がなく、メディチ銀行はそのための道具に成り下がった。


「どうした? ルグラン殿、考え事か?」


 コジモが俺の顔を覗き込んでいる。メディチ銀行の運命に思いを馳せて、ぼーっとしてしまったようだ。


「メディチ銀行に出資できるとは誠に光栄です。断る理由などないでしょう」


 そこで俺は言葉を切って立ち上がった。腰の巾着袋から長方形の紙片を取り出してコジモに差し出す。あらかじめ天使ノートから切り取ってあったものだ。


「何だねこれは?」


 コジモも椅子から腰をあげて紙片を受け取ると不思議そうに眺める。


「それは、1フィオリーノと交換できる紙です」


 俺の言葉にコジモは肩をすくめてみせた。


「何かと思えば、為替手形のことか。だがこの紙には金の受け渡しについての文言が書かれていないぞ。これでは為替手形とは言えんな」


「為替手形の裏面に譲り受けた人の名前を記載することで他人に譲渡することがあるそうですね?」


「ああそうだ。為替手形はあくまでも個人間の資金のやり取りが書かれた証書だ。だが裏面に金を受け取れる人の名前を書く欄を作っておき他人に譲渡できるようにしたものがある。そうすれば金を受け取れる権利を売買できる」


 コジモは紙片を窓から入ってくる光に透かして見ている。薄さに驚いているようだ。


「為替手形は、個人間の契約に基づいて持ち込まれたコルレス銀行が金を支払ってくれるという信用があるので取引相手は受け取ってくれます。資金の貸し借りには信用がとても重要だということです。ではどうすれば信用を得られるのか?ひとつは取引を誠実にそして確実に実行することです。そしてもうひとつは取引を行えるだけの十分な資金を持っていることです」


 俺は手を差し出してコジモから紙片を受け取った。


「そちらのペンを使っても?」


 コジモが黙ってうなずいたので、机のペン立て穴に入っている羽ペンを取り出し、インク壷に差し込みインクをつけた。次に紙片を机に置き次のように文字を書いた。


『1フィオリーノ メディチ銀行券』


 俺は文字を記した紙片を拾いあげるとコジモに差し出す。


「メディチ銀行に1フィオリーノ出資させて頂きます。この銀行券で」


 コジモの瞳に困惑の色が浮かぶのがわかった。それはそうだろう。紙切れを渡されてそれで出資すると言われたのだから。


「ルグラン殿、なかなか面白い冗談だな。この紙は確かにとても上質だが1フィオリーノの価値などないだろう。そもそも銀行券とは何なんだ?」


 銀行券とはいわゆるお札のことだ。現代の日本では日本銀行が、アメリカでは連邦準備制度理事会(FRB)が発行している。もちろん中世のイタリアにお札などないのでコジモが戸惑うのも仕方ない。俺はコジモの質問には答えず紙幣に以下の文言を書き足した。


『この銀行券は1フィオリーノの金貨と交換できる』


 お札には金貨と交換できる兌換だかん銀行券と交換できない不換ふかん銀行券がある。現在の日本やアメリカで流通しているお札は金貨と交換できない不換ふかん銀行券だ。


「これならどうです?」


 紙を差し出してコジモに尋ねる。


「ううむ……ルグラン殿が持っている純度の高い金貨と交換できるのなら受け取ってもいいような気もするな。ただしこんな紙の切れ端ではなく正式な書類として欲しいが」


「その通りです、コジモ殿。私が考えている銀行ビジネスとは、金貨や銀貨に代わるお金を作ることです。つまりは紙で出来たお金です」


 コジモの目が大きく見開かれた。驚きと困惑の混ざったような表情だ。


「何とも奇想天外な……話だ。少し座って考えさせてくれ。ルグラン殿、君も座ってくれたまえ」


 コジモは、執務机の椅子に俺は折り畳み式の椅子に腰掛けた。コジモはしばらく天井を見上げて考えていたが、やがて口を開いた。


「ルグラン殿、君の提案にはふたつの問題点がある。ひとつは、仮に紙で出来たお金を作るとした場合、羊皮紙ではダメだ。分厚くて持ち運びしにくいし形を均一に出来ない。君が持っていたこの紙は極めて薄くて軽い、しかも触った感じだと丈夫で破れにくそうだ。どうやってこんな紙を作ったのかわからないが、この程度の品質の紙を大量に作り同じ大きさに加工する必要がある。どうだね?」


「おっしゃる通りです。私が持っているこの紙は異国で偶然手に入れたもので、残念ながらこの紙と同じものを大量に作る技術を私は持っていません」


 コジモの表情に落胆の色が浮かんだ。


「もうひとつの問題点だが、どちらかというとこちらの方が深刻かもしれん。第1の問題点が解消されて紙のお金が大量に生産できたとしよう。わがメディチ銀行が紙のお金で貸し出しをしたとする。その時、紙のお金を受け取った人はおそらくすぐに、その紙のお金と金貨を交換することをわが銀行に要求するだろう。わが銀行からは金貨がどんどん流出し、やがて金貨は枯渇する。代わりに金庫には誰も持ちたがらない大量の紙が残るだろう」


 きんといつでも交換できる紙幣を作り、きんの価値と連動させることによって価値を安定させて、いつでもどこでも安心して使えるようにする制度を金本位制きんほんいせいと呼ぶ。コジモが挙げた問題点はまさにこの金本位制きんほんいせいの弱点そのものだった。

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