第97話 良貨と悪貨

 どうやら案内されたのは応接室ではなく、コジモの執務室のようだった。使い込まれた古い執務机が入り口の扉に向かい合う形で設置されている。入って右側の壁面には大量の帳簿が納められた棚があり、机の手前に折り畳み式の椅子が一脚置かれたいた。


 コジモは胸元が大きく開いた黄色の胴衣を身につけ、羽飾りのついたカロット※を被っている。下半身を覆うタイツは、右脚が縦縞模様で左脚が白と左右で別々の模様となっている。流行を取り入れた最先端のファッションだと思われる。

 ※注……半球状の頭部にフィットした帽子。


「堅苦しい挨拶は抜きでいこうじゃないか? いやフランスではそういうのはダメだったかな?」


「いや、私もその考えに賛成ですよ。コジモ殿」


 俺の答えにコジモは眉を上げてみせた。


「さあ、その椅子に座ってリラックスしてくれ。今、飲み物を持って来させよう。ワインでいいかね?」


「はい、ありがとうございます」


 コジモは呼び鈴を鳴らし、使用人にワインを持ってくるように伝えた。俺は用意された椅子に腰を掛ける。


「フィオリーノ金貨は様々な国で使われている。何故だかわかるかね?」


「そうですね。まず価値が安定している。これは重要ですね。もちろんメディチ家の方々の努力もあってのことですが」


「もちろん価値の安定は非常に重要だ」


 そう言いながらコジモは机から1枚の金貨を摘み上げた。


「見たまえ。このフィオリーノ金貨には王の肖像は刻まれていない」


 コジモがフィオリーノ金貨の片面を俺に見せる。そこには百合の花の紋章が刻まれていた。さらに金貨をひっくり返して裏面も見せる。フィレンツェの守護聖人、洗礼者ヨハネの像が刻まれているのが見えた。


「これは我々、商人の金貨なのだ。権力者によって価値をねじ曲げられる金貨ではない」


 コジモの言いたいことはなんとなく理解できた。金貨の価値は時の権力者によって変えられてしまうことがよくある。16世紀、イギリスの財政家、トーマス・グレシャムは「悪貨は良貨を駆逐する」で有名なグレシャムの法則を提唱した。


 金の含有量が多い金貨を良貨、含有量が少ない金貨を悪貨と定義すると、人々は良貨の方を財産として手元に置いておこうとし、悪貨の方を支払いに使おうとする。結果的に市場には粗悪な悪貨ばかりが流通することになり、質の良い良貨は市場から姿を消す。


 金貨の信用力は低下して物の値段が上昇、景気は悪くなる。下手をするとハイパーインフレーションを引き起こしかねない。権力者である王は金の含有量を減らすことで金貨の量を水増しし、自らの収入とする誘惑に負けてしまう。そんな王権の支配を受けていないからこそ、フィオリーノ金貨は広く普及したのだ。


 執務室のドアがノックされ、使用人がワインを持ってきた。木のカップに注がれた白ワインだ。


「ブルゴーニュから取り寄せたワインだ。俺は部下にワインには手を出すなと言ってるんだ。輸送がとても難しいからね」


 俺はワインを一口飲んだ。うまく運ばれたようでとても美味しい。お互いにワインを飲むことで部屋の雰囲気も少し緩んだ。俺は本題を切り出すことにした。


「フィオリーノ金貨は確かに優れた金貨です。だが、我々が手に入れることが出来るゴールドはあまりにも少ない」


「そのとおりだ。金はいくらあっても足らないね」


 俺の言葉にコジモは小さくうなずき、机の上からもう一つの金貨を手に取った。


「君が持って来たこの金貨だが、高い鋳造ちゅうぞう技術で作れれたものだ。ここまで金の含有率を上げるのは簡単じゃあない」


「コジモ殿がおっしゃる通り、その金貨は現時点で望める最高の『良貨』でしょう。支払いに使うより手元に置いておきたくなるたぐいのものです」


「もし君がこの金貨を大量に持っているのなら、我がメディチ銀行に出資せんかね?通常、一族以外の者の出資は受け付けんのだが、例外にしてもいい」


 妥当な線だと俺は感じた。俺が持っている大量の金貨を手に入れるには、俺に何かの商品を売りその対価として金貨を受けとる方法がある。


 だがそのためには俺が必要としている商品を大量に調達しなければならない。そもそも俺が商品の購入を希望してなければ絵に描いたもちになってしまう。


 メディチ銀行への出資なら、俺の出資分に応じて配当金を支払えばそれでいい。俺が銀行経営に口を出せば厄介かもしれないが、銀行経営に素人の俺ならばなんとでもなる、そう考えたのだろう。


 俺は昨日の夜、天使ノートで学んだメディチ銀行の歴史について思い出していた。1494年、メディチ銀行は破産する。メディチ銀行が隆盛を極める前、フィレンツェにはバルディ家やペルッツィ家の銀行があった。このふたつの銀行は英国王、エドワード3世に巨額の融資をしていた。


 1337年に始まった英仏百年戦争は、このエドワード3世がフランスの王位継承権を主張したことから始まったのだった。エドワードは、バルディ家、ペルッツィ家から借りた金を使って低地地方、オランダとベルギーの国境付近に軍を上陸させた。


 結局、両家がエドワードに貸した金は返済されなかった。そのことが元で両家の銀行は破産することになった。いつの時代でも戦争には巨額の資金がいるのだ。


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