第52話 君主論

【ドンレミ村のジャンヌ】


 それからしばらくは神様の声は聞こえなかった。私は段々と不安になってきた。もう私は用済みになったのではないか? 何か神様の教えに背くことをしてしまったのではないか?


 私の忍耐が限界に達しようとした、まさにその時、待ち望んだお告げがあった。優しくそして清らかな声を再び聞くことが出来て、私ははこみ上げる涙を抑えられなかった。


「やがて西方から旅人がやって来ます。その旅人と協力して使命を果たすために必要なものを手に入れるのです」


 旅人がやって来るですって。こんな辺境の村にいったい誰がやってくると言うのだろう。しかもその旅人といっしょに必要なものを手に入れる? 必要なものってなんだろう? 様々な疑問が浮かんでくるが、この疑問に神様が答えてくれることはなかった。


 神様は、テンプル騎士団の手記のことは何もおっしゃらない。手記は神様のお告げとは無関係なのだろうか?


 だが、と思う。神様のお告げで教会の地下室を知り、そこで手記を見つけたのだ。これが偶然であるはずがない。なにか神様のお考えがあるばずだ。


 ああ、神様がそれを教えて下されば! これほど思い悩むこともないのに。もしや、これから来ると言う旅人は神様の使いなのではないか? 私を導いてくれるのではないか? そう考えると急速に胸の鼓動が高まるのを感じた。


 シモン司祭は、もう私にあまり教えることがないと思ったのか自習を命じられることが多くなった。司祭様自身も、なにやら忙しそうで教会を留守にすることが多い。


 そこで私は教会には行かず、林の中にある秘密の通路を使って、例の白い部屋に直行するようになった。神様のおっしゃる『新しい知識』を得るために。


 ルカ・パチョーリさんの『算術、幾何、比及び比例全書』で会計について学び、カール・フォン・クラウゼヴィッツさんの『戦争論』で戦争について学ぶ。世の中を動かしている貴族の人たちは、これらの知識を身につけているのだろうか?


 お金を稼ぎ、敵と戦う。どちらも重要な事だ。それは間違いない。だが、なにか足らないと私は思った。何かが私に欠けている。それも決定的な何かが。


 白い部屋で、書物に目を通していた私は、ふと巨大な書棚を見上げた。次の瞬間、一冊の本のタイトルに目が釘付けになった。


 ――『君主論』


 私は吸い寄せられるようにその本の元へ歩み寄り、書棚から取り出した。テーブルへ戻り、本を開く。


 著者はニコロ・マキアヴェッリ。刊行は1532年、またもや100年以上も先だ。何かおかしい。パチョーリさんの本と同じように単なる間違えか、クラウゼヴィッツさんの本のように未来のことを書いた物語か?まあもう気にするのはやめよう。問題は中身なのだ。


 マキアヴェッリさんは、イタリアのフィレンツェで政府のために働いている人だそうだ。当時のイタリアはいくつかの都市国家とローマ教皇様の領土が互いに争っていた。イタリアがバラバラになってしまった原因は、私の心の師であるカエサル様がいたローマ帝国が滅んでしまったことにあるようだ。


 その後、カール大帝という人がヨーロッパ全域を征服したのだけど、彼が死ぬと再び分裂してしまう。その後も分裂を繰り返すのだが、962年、東フランク王国のオットー1世がローマ教皇様から皇帝の称号を預かり、同時にイタリア国王にも即位した。彼の領地は神聖ローマ帝国と呼ばれるようになる。


 ただ、皇帝の支配が及ばない地域は地方の領主が統治した。やがて都市が発展し始めるとコムーネと呼ばれる自治都市が現れた。皇帝フリードリヒ1世が王権を強化しようとイタリア遠征を繰り返したが北イタリアの都市同盟に大敗して「コンスタンツの和約」を結ぶ。これ以降、事実上の主権を持った「都市国家」が成立した。


 マキアヴェッリさんは、そんな都市国家フィレンツェにいるのだが、フィレンツェにはロレンツォ・デ・メディチといういう優れたリーダーがいた。ロレンツォは、フィレンツェ、ミラノ、ナポリの三国同盟を重視して政治の安定を図ったそうだ。また学問や芸術のパトロンとしても有名だった。


 だが、マキアヴェッリさんが理想の君主として描いているのは、チェーザレ・ボルジアという人だった。


 イタリア語でチェーザレ、ラテン語では――


 ――カエサル!!


 私の前に、もう一人のカエサル様が現れた。いったいどんな人なのか? 知りたい!


 マキアヴェッリさんの推しメン、チェーザレは、ローマ教皇アレクサンドル6世の子供だ。フランス王ルイ12世から軍隊を借りてイタリアのロマーニャ地方を次々と征服していた。元々この地方は教皇領だったので取り返そうとしたのだ。ロマーニャで内乱が起こった時、チェーザレ側につくよう圧力をかけられたフィレンツェは、マキアヴェリさんを交渉人としてロマーニャに送った。


 そこで初めてマキアヴェッリさんは、チェーザレに出会った。チェーザレは、自分側に味方するように露骨に迫ったという。そして反乱はいずれ自分が鎮圧するので今のうちに自分についていた方が良いと、自信満々に語った。マキアヴェッリさんは恐怖を感じるどころか、すっかりこのチェーザレという人物に魅了されてしまったようだ。


 そしてチェーザレのその言葉通り、反乱軍の足並みは乱れチェーザレとの和睦に応じた。その後、油断した反乱軍を次々と捕縛、処刑していった。


 カエサル様とチェーザレ、同じ名前を持つ人なのにこんなにも違うなんて。もちろんカエサル様のことを全て知っているわけではない。カエサル様だって陰謀を巡らす事もあっただろう。でも私の中のカエサル様は正々堂々と正面から敵を撃ちまかし、敗者にも寛大な態度で接する、そんな英雄なのだ。


 一方のチェーザレはどうだろう。人の心を掴むために様々なはかりごとを巡らし、そのために部下をも平気で殺す。まさに冷酷非道なリーダーの典型だ。


 ここで私はハッと気がついた。この書庫に置かれている書物は預言書なのではないか? 神様がこれから起こることを私に教えるために作られた書物なのではないか? だとするとパチョーリさんも、クラウゼヴィッツさんも、マキアヴェッリさんも、チェーザレもこれから先の未来に存在する人たちなのではないか?


 私は、急いで書棚に駆け寄ると手当たり次第に本を手に取って調べ始めた。


 ――うそっ! こんなバカな!


 開いた本のページは全て真っ白な空白だった。次の本も、その次の本も、そして次も……。


 いったいどういうことなのだろう? これ以上知る必要はないという神様の御意志なのだろうか?


 私は急に怖くなった。さっき、私は考えたのだ。もしかしたら、これから起こることが全部わかるのではないかと。私は『神のみぞ知る』ことを知ろうとしたのだ。フラフラと部屋の出口へ向かい扉を開けた。


 秘密の通路を使い地上に出ると、空一面に黒い雲が広がっていた。


 


 


 

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