第16話 秘密の部屋

【ドンレミ村のジャンヌ】


 次に『声』が聞こえたのは自宅の庭にいる時だった。教会へお祈りに行こうとちょうど家を出たところで、それは聞こえた。


「――ジャンヌよ。聞きなさい」


 まわりには誰もいない。聞き漏らさまいと意識を集中する。


「フランス王をランスへ導くのです」


 ランス……ランスとおっしゃったのか? 母から聞いたことがある。フランスの王様は代々ランスという町にあるノートルダム大聖堂で王冠を授かって、本当の王様として認められるのだと。


「私は……私は何をすればいいのでしょう? 神様お教えください」


 わずかに間があった。


「文字を……文字を学ぶのです」


 意味がわからなかった。『文字』を学ぶとはどういうことだ? 私は文字が読めない。私だけではない、父も母も友達も私のまわりにいる人で、誰ひとりとして文字が読める人はいない。司祭様が読んでくださる聖書は『ラテン語』という文字で書かれているらしい。貴族の人や司教様は『文字』を読んだり書いたりして神様の言葉や他人の言葉を理解しているのだという。だが、農民の私には関係のないことだと思っていたし、必要とも思ってなかった。だが、神様がそうおっしゃるのだ。どうすれば……。そうだ、シモン司祭に聞いてみよう。


 私は急いで教会へ向かった。シモン司祭は急いでやってきた私を見て驚いたようだった。


「どうしたんだい? ジャネット」


「声が……神様の声がまた聞こえたのです!」


「まあまあ、落ち着きなさい、ジャネット」


 肩で息をしている私を見て、シモン司祭はなだめるように言った。シーンと静まりかえっている教会内に自分の息づかいだけが響いており、私は急に恥ずかしくなった。


「私……私、司祭様に教えていただきたくて、居ても立ってもいられなくなってしまって……」


 シモン司祭はニッコリと微笑んだ。この笑顔を見るとなぜか落ち着く。


「言ってごらん、ジャネット。神様はなんとおっしゃられたのかな?」


「王様をランスへお連れするようにと言われました。それから……」


 私は言葉を切るが司祭様は何も言わない。ただ黙って聞いている。


「『文字』を学ぶようにと、おっしゃいました」


 私の言葉を聞いて司祭様は何かを考えているようだった。ふうむ、と首をひねっている。


「『文字』を学びたいかい? ジャネット」


 質問されるとは思っていなかった私は戸惑った。果たして私は文字を学びたいのだろうか? そもそも神様はなぜ、私に文字を学べというのか? わからない。ただ、文字を学ぶことが王様を――、フランスを救うことに役立つというのなら、学ばなければならない。


「学びたいです」


 司祭様の目を見てはっきりと言った。


「昔、ギリシアという国にソクラテスという賢者がいた。ソクラテスはこう言ったんだ。『知っていると思い込む人間より、自分は知らないことを知っている人間の方が賢い』とね」


 私はシモン司祭の言っている意味が理解できず、「はあ」と曖昧あいまいな返事をした。


「いずれわかるよ。さあ、ついておいで」


 シモン司祭は、袖廊しゅろうとよばれる場所へ歩いて行く。教会は十字架の形を模して作られており、袖廊しゅろうはちょうど十字架の横棒にあたる部分にある。


 シモン司祭は壁の棚から、ろうそくの取り付けられた燭台を手に取った。壁に取り付けられている松明たいまつから、ろうそくに火を移すと一旦、床に置く。身をかがめて床に膝をついた司祭様は床に手をつけてぐっと押した。すると押した部分の床が正方形に押し込まれていった。がらがらと石がこすれる音とともに床板が横に移動してぽっかりとした穴が現れた。


 私が目を丸くしていると司祭様は振り向いて言った。


「秘密の部屋に案内しよう。ここへおいで、ジャネット」


 穴のそばまで行って中をのぞきこむと、どうやら下に降りる階段になっているようだ。燭台を拾い上げた司祭様は、ゆっくりと階段を降りていく。


「さあ、私に続いて。足元に気をつけるんだよ」


 司祭様は私が降りやすいように、ろうそくで足元を照らしてくれる。階段を下まで降りるとそこは正方形の部屋だった。私の家にある部屋よりも広く、天井も高い。司祭様が室内に設置してある燭台に次々と灯りをともしていく。部屋の中央には木製のテーブルと椅子が置いてあるが、私の目を奪ったのは壁の棚に並べられている『何か』だった。


「聖書がいっぱいある!」


 司祭様が持っている聖書によく似たものがいっぱい置いてある。ただし、大きさはまちまちだった。


「これは聖書じゃないんだ」


 司祭様は棚から一つ「それ」をつかみ出し、テーブルの上に置いた。


「これは紙でできた「本」だ。もちろん聖書も「本」のひとつなんだが、ここにあるたくさんの「本」は聖書に書いていないことで、学ぶべきあらゆることが文字で書いてある」


 聖書に書いていること以外で学ぶべきことってなんだろう? 畑の耕し方だろうか? 料理のやり方? それとも、洗濯のやり方かもしれない、と思った。司祭様はテーブルの上にある「本」を開いた。意味不明な線の塊がいっぱい並んでいるのが見えた。これが文字なのだろうか?


「これはダンテ・アリギエーリ※という人が書いた神聖喜劇ディヴィーナ・コンメディアという本だ。一般には『神曲』と呼ばれている」

 注※ダンテ・アリギエーリ(1265年−1321年)イタリア、フィレンツェ出身の詩人、哲学者。代表作である「神曲」はイタリア文学最大の古典とされる。

 

 ダンテ? 記憶を探るが全く知らない名前だった。


「これは、ラテン語の文字ですか?」


 私は目の前にある本に書かれている訳のわからない記号を指差して尋ねた。


「いや、これはイタリア語だ」


 イタリア……、たしかとても偉い教皇様がいらっしゃる国だ。だがイタリアがどんなところなのか、教皇様がとんな方なのか全く知らない。ドンレミ村のすぐ東側は神聖ローマ帝国と呼ばれ、こちらもとても偉い皇帝陛下が治めていらっしゃるそうなのだが、帝国がどんなところなのか、皇帝陛下がどんな方なのか同じように知らない。


 司祭様がおっしゃる通り、私は何ひとつ知らない。自分が知らないことを嫌というほど知っている。ソクラテスさんは間違っている。私は賢くなんかない。


「文字が読めれば本が読める」


 司祭様は本に記されている文字を、指でなぞりながらつぶやくように言った。


「本とは何か? 本とは他人の経験、他人の歴史だ……。君の知らない、ソクラテス、ダンテ、教皇、皇帝、世界のあらゆる人間の歴史そのものだ。それを自分のものにしたいとは思わないかい?」


 まるで私が考えていることがわかるかのように司祭様は言葉を続け、そして私に問う。私は自分の中で今まで一度も感じたことがないような感情がムクムクと湧き上がるのを感じた。純粋に神様を思い祈る気持ちとはまるで違う――もう抑えられない。


「本を……読みたい。文字を知りたい……。知りたい……全てを」


 シモン司祭は、力強くうなずいた。


「それでいい。それでいいんだ。神様のためだけじゃない。自分のために学ぶんだ」


 その日から私は教会のこの秘密の部屋で、シモン司祭から文字の読み書きを学ぶことになった。司祭様からは、文字を学んでいることは誰にも言ってはならないと言われたので言いつけ通り誰にも言ってはいない。並行してフランス語だけではなく、ラテン語も学ぶそうだ。教会へ行く頻度、時間が大幅に増えたが、周りの人は私がより信心深くなったと思うだけで特に怪しんではいないようだ。


 私はシモン司祭が驚くほど早く、文字や言葉を習得していった。

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