第1章 -6『遠く近しい援護』
大水没によって地球を埋め尽くした水らしきものは、誰も使い道を知らない、未知の物質で溢れていた。
水質新元素―――『ハイドロエレメント』と名付けられたそれは、水没した世界における人類最初の研究対象となった。
あるときは栄養のかわりとなって作物を育てる。
またあるときは抽出することで効果の高い薬剤となる。
その実態が明らかになるにつれて、ハイドロエレメントは災害の名残りから、新たな世界の希望に変化していった。当然、最初はそれを受け入れられない者が多くとも、世代を重ねれば問題にされなくなっていく。
―――だが。
傲慢なことに。いつしか人類は、無根拠に思い込んでいた。
この未知なる素晴らしき元素を使えるのは―――人類だけなのだと。
「俺は・・・
『―――残念ながら、そうだよ。
この両者の遺伝子情報は、驚くほど似ている。
奴らが魚の姿をしているのが不思議なくらいだ・・・逆もそうだけどね』
今まさに、御神織火はアイデンティティの崩壊に瀬戸際で耐えていた。
あれだけ憎み、恐れ、怒りに胸を焦がした仇敵と―――同類。
〈グラディエイター〉の起こした波の余波が足を撫でるたび、叫びを上げて崩れ落ちそうになる。空気に感触が感じられない。肌が熱くて、そして寒い。
当の〈グラディエイター〉に動きはなく、ただ半身だけを浸してたゆたっている。水の揺らめきに歪むその目は、まるで愉悦を讃えているかのようだった。
『さっきの決意がたとえ今日だけだったとしてもね。
戦うことを決めた時点で、直面することは決まっていた事実だよ。
上位の巨魚は波を操る。同じ力を持たなければ対抗できない。
これを飲み込めないなら―――今を生き残るのも難しいよ』
「―――ッ、そうか・・・そう、だよな・・・」
自分はこれほど心が弱かったのかと、織火は思う。
命を懸けようと思った自分はどこへ行った。それでもと思えないのなら、初めから戦いなどするべきじゃないはずだ。
内心の自分を殴りつけ、せりあがってくる吐き気と嫌悪感を、どうにか握り潰す。
ジェットを吹かし、よろりと姿勢を正す。
「あんたが何者なのか、そろそろ気になってきてる。
ここを生きて抜けたら、ちゃんと全部説明してもらうぞ」
『オッケー、ギリギリいい声してるじゃん!!
倒すまで行かなくていい!こっちに救援が向かってる、逃げ切れ!!』
「分かった!」
こちらの会話が聞こえていたのか、はたまた織火の動きに何らかを感じたのか、〈グラディエイター〉が唸り声を上げて推進を開始する。
先ほどまで相手をしていた〈ヘッドスピアー〉が子供のように感じられる。速度も質量も、まさしく格が違った。
織火は最大加速を求めて進行方向にスロープを作成し、さらに急カーブを行うためのひとまわり小さい傾斜を作り出した。最大速度で上回ることはできないと踏んで、回避をより確実に行うための作戦だ。
額の刃角で文字通り水を斬りながら、一直線に織火に迫る〈グラディエイター〉。その獰猛な切っ先が背骨を突く一瞬前に、織火は急激にカーブ。
(よし、避けられる!)
背後で爆発音が聞こえる。音圧はケタ違いだが、何度も聞いた音。水面から飛び出していく際の、水の爆発音だ。
(チャンスだ!空中にいる隙を狙って―――)
織火は急ブレーキをかけ、滑るようにしながら音のした方へ転回する。
『ダメだ、オルカ!!逃げろ!!』
〈グラディエイター〉は、飛んでなどいなかった。
見上げた織火の視界には、山のように隆起した海があった。
―――海ごとそこを泳いでいた。
直後、海が形を成して織火を襲った。回避の間に合わなかった織火は、細長い水のチューブに飲み込まれる。
水圧が胸を叩き、肺に地獄を送り込む。次いで浮遊感、それと反比例するように焦燥が湧き上がる。チャナは何かを叫んでいるが、耳鳴りがしてよく聞こえない。
ゴーグルは視界を水から守ってくれた・・・が、それは幸いではない。
より残酷な現実だけが、ハッキリとそこに見えた。
それは実際、檻と呼ぶのが最も相応しい。
逃げ場なき獲物に示される、可変自在の棲息圏。水で出来たエサ箱。
人類にはここに住む資格などないとばかりに、その魚は牙を剥き、刃を真っすぐに織火へと向けていた。
ブーツを全開で吹かし、必死にもがく。少しずつ、少しずつ織火の身体は水の外へと向かう。急げ。急げ。急げ―――。
鼻まで出て、呼吸を取り戻したところで―――足の先が急激に重くなり、推進力が完全に消えた。絶望は、さらなる絶望を運んでくる。
(・・・・・・・・・ブーツの・・・バッテリー・・・・・・!)
織火の履いている、スプリント競技用のブーツ。
短時間の走行に特化したそのブーツは、長時間の稼働を想定されていない。多数の巨魚を相手に最高戦速を発揮し続けたことで、バッテリー残量が底をついた。
(・・・今度こそ・・・もう、完全にダメか・・・・・・・・・?)
織火は、〈グラディエイター〉が逆光に黒く染まるのを見た。部位の区別をなくしたその姿は、まさしく一本の凶刃そのもの。
影がうごめき、向き直る。一筋の陽光が、ことさら残酷に刃に輪郭を与えた。
(・・・いやだ・・・)
きっと、同じになる。
ここで見逃したら。ここで俺が死んだら。
きっと、みんなこうなって。
そして死ぬ。
(いやだ・・・だめだ・・・)
腕を振るう。足をかく。もがく、もがく、もがく。
意識が薄れる。もがく。
刃が迫る。もがく。もがき続ける。
影が眼前を埋め尽くし、そして、
「―――射線を確保します。
その場から動かないで下さい」
周囲の海がなくなった。
水を筒状にえぐって作られたトンネル。
直後、青白い光の軌跡が、〈グラディエイター〉の横腹に突き刺さり、焦げる音を立てる。
「―――ガハッ!!・・・ぐぅ・・・なん、だ!?」
筒の外周の水面に強く打ち付けられる。
ようやく身体の自由を取り戻した織火は、状況を理解しようと周囲を見回す。
逃げる〈グラディエイター〉の行く先々には同じようなトンネルが穿たれ、その度にそこを青白い光の軌跡が通り過ぎる。数発が〈グラディエイター〉を捉えたが、致命傷には至らないようだ。
そして織火は、トンネルの近くに投げ込まれる、機械の錨を見た。
―――アンカー。
「遅れて申し訳ありません」
背後から声が聞こえる。
背中のジェットパックを吹かせながら、その主は現れた。
燃えるようなオレンジの瞳を輝かせ、長い銀髪を結わえた少女。
左手にはアンカー。右手には、狙撃ライフルらしき武器を持っている。
『リネット!!』
「アクトゥガ副隊長、遅くなりました。
リネット・ヘイデン戦闘員、到着です」
『いや、よく来てくれた!!ギリギリだったわーマジで!!』
「良い知らせばかりではありません。
実は、あのあと群れをもうひとつ発見しました。
そちらを単身叩くために、隊長は来られません」
『ハアアアーーーン!!!!?!?
日本には巨魚が少ないとは一体!?』
「それと・・・あなたが、ミカミオルカさんですね」
「あ、あぁ・・・そうだ」
「あなたに用が・・・の、前に、まずは場所を移しましょう。
このトンネルはそろそろ閉じますから・・・失礼しますね」
リネットはジェットブーツが機能していない織火を抱え上げると、背中のパックを噴射させ上昇する。
少し離れた水面に壁を作ると、リネットはスモークのようなものを散布した。
「ジャマーです。これで少しの間、向こうはこちらを発見できないはず」
「リネットさん、って言ったっけ・・・・・・・・・本当に助かった」
織火は、無力感に打ちひしがれていた。
意地になって船を飛び出し、ただ怒りに任せて与えられた武器を振るった。
その結果が、これだった。
「どうしました?」
「あ、いや・・・で、用ってなんだ?」
「あなたに届けたいものがふたつあります」
「俺に?何を―――」
「ひとつはこれです」
手渡されたのは、小さなポーチ。表面に『真川春太郎』と書いてある。
「あいつ!」
中を開くと、ジェットブーツの予備バッテリーが入っていた。織火の履いているものと、規格が合う。
織火の記憶しているところでは、春太郎はスプリントに関わってはいない。ポーチを提供したのは春太郎だとしても、このバッテリーは違う。
「これは・・・どうして?」
「もうひとつは、伝言です。ユーイチさんから」
「ユーイチ?」
「“お前だけのせいにして悪かった”。
“中学のころ、お前が目標だった”・・・彼はそう言っていました」
「――――――――――――・・・・・・・・・そう、か」
ユーイチ。
ユーイチ、って、言うのか。
スプリントをやってたのか。
織火は、その名前を覚えた。今度は忘れないだろう。
「情けねえ」
織火は、さっきとは別の意味で、今度こそ自分を恥じていた。
何が自分を動かしたのか。どうしてここにいるのか。怒りの向こうにある原動力を確かめなおし、織火はバッテリーを装着する。
「これ以上の人員はここには来ません。
私とあなた、そしてアクトゥガ副隊長。三人だけです」
『やべぇなー!!できれば帰りたいっすわー!!』
「オルカさん。あなたにはまだ、逃げる選択肢もあります。
これ以上の援護は期待できない―――」
「リネットさん」
言葉を遮り、オルカは小さく笑んだ。
ポーチを握りしめ、かかとのペダルを軽く踏む。
足の裏側に、自分を支える力を感じた。
「援護はもう受けた。
これ以上のものはない―――もう、本当に負けられなくなった」
遠く水平線。スカイツリーの頂上部が見える。
―――校外学習は、まだ途中だ。
≪続≫
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