第1章 -8『VS〈グラディエイター〉②』
肩に怪物の歯牙が食い込む。あってはならない穴を掘る。
夕焼けの逆光に浮かぶシルエットに、人と魚の区別がない。
これが、魚であると認識されたとき―――御神織火は死ぬ。
「が―――ァ、あ、あああああああああああああ!!!!!!!!!!」
絶叫する。
叫べば叫ぶほどに流れ出る血は、この世界に痕跡を残さない。
冷たい海に消えゆく、生命の液体。
「は、ぎぃ・・・ッ!!ぐ、あああッ、ああ―――!!!」
叫ぶ。叫ぶ。ひたすらに悲痛に。
「オルカさんッ!」
リネットはライフルを構えるが、ぐねぐねと身じろぎする〈グラディエイター〉のせいで、織火に命中しないよう撃つのが難しい。
こうして逡巡している間にも、血は流れ続ける。
織火は血を流す。
〈グラディエイター〉は、身をよじる。歯牙が暴れ、傷を広げる。
その度に織火は叫ぶ。叫び続ける・・・・・・・・・。
―――そして。
その違和感に気付いたのは、チャナだった。
「・・・・・・・・・・・・なんで食い千切られないんだ?」
「―――!」
言われて、リネットも気付く。
確かにそうだ。あれだけの体格差と、口の大きさ。本来であれば、人間の肉や骨など容易く噛み千切り、さらなる部位に歯を立てていてもおかしくない。
―――あそこで、何かが起きている?
「ぐッ・・・ぎ、ぃ・・・ぅあ、あああ・・・あああああ―――ッ!!!」
織火はまだ叫んでいる。
リネットはようやく理解した。それは、痛みや苦しみの叫びではない。
―――彼は、戦っている。
そしてそれに気付いたとき・・・耳に届いたのは、音だ。
水を吹き飛ばす音。モーターとパイプ、電源の唸り。
最初から続けられてきた、戦いの音を聞いた。
織火はブーツを噴射している。
突如、明らかに〈グラディエイター〉の様子が変わった。
ビクンと一瞬身を震わせ、そして激しく全身をうねらせる。
それは獲物の骨肉を噛み切るための動作ではない。先ほどまでは織火がそうだと思われていた動き―――苦痛に悶える動きだと、リネットもチャナも理解できた。
「―――ははッ・・・!」
それを見た織火は、壮絶な表情で笑う。
噴射を強めるたび〈グラディエイター〉は苦しみ・・・やがて、背びれのすこし横のあたりから湯気・・・否、煙が上がる。
鱗の隙間から見えるのは、焦げる肌と―――赤熱する鋭利な突起。
『スラッシャーの赤熱ブレード・・・!?』
「作戦会議のときから・・・ッ、考えてた・・・!
最悪の場合、どこなら有効だろう、って・・・!」
織火は目を見開くと、噴き出る血も厭わずに、左腕を持ち上げる。
そして、噴射の段階を上げると、
「―――ここなら・・・ウロコの硬さは、関係ねぇ・・・なぁッ!!!」
灼ける刃が、体の内側から、完全に〈グラディエイター〉の表皮を貫いた。
そして織火は、腰に下げていたものを右手に取る。
春太郎のポーチ。
「なぁ、〈グラディエイター〉・・・
お前―――友達ッ、いるのか?
親とか、兄弟とか・・・ぐ、ッ・・・先生とか、チームメイトとか・・・」
目の前の巨魚の名を呼びながら―――それは、誰への問いかけでもない。
ただ、これからすることに、勇気と意思が必要だったから。
その確認をしているだけの、独白だった。
「俺には、いるよ―――大して仲良くもない俺を、遠くから助けてくれる友達が。
勝手に死のうとしてた俺を、手伝ってくれる人たちが」
ポーチから、ずっと潜ませていたものを取り出す。
青く輝く、小さな弾丸。
「これは、そういう人に教えてもらったんだけどな―――」
織火は、その炸裂弾を軽く放り投げると。
「―――爆発するんだぜ、これ」
弾もろとも・・・右の拳で、思い切り刃角を殴りつけた。
初めに閃光。次いで爆音。そして風。
青い暴威が拳のベクトルを乗せ、剣闘士の凶器に炸裂する。
刃角は、驚くほど綺麗にその形状を保ったまま―――根本付近から折れて、その大部分が遠くの水面へと落ちた。
「オル―――」
『ばっ―――』
あまりの強行に絶句するリネットとチャナ。
その声なき声すら遮るように、〈グラディエイター〉が壮絶な咆哮を上げ、ついに獲物の肩からその口を離した。
「ぐ、ぁあッ!!
―――はァ・・・ッ!!ぎ、ふぅ、あッ・・・!!が・・・!!」
歯牙に蓋をされていた左肩から、大量の血が吹き出す。
そして、それがましに見えるほどの―――焼けた右腕を抱え、荒く呼吸をする。
〈グラディエイター〉の全身には、早くも異常が訪れていた。
不規則にバチバチとパルスが明滅し、皮膚に青い光が浮かぶ。
そのたびにあちこちの鱗が剥がれ、あるいは血を流す。
・・・しかし、それでもまだ、剣闘士は死を受け入れない。
最初とは違う意味の本能的狂気。死の恐怖に狂ったその目が、織火を捉える。
そして残り少ない角にパルスを集めると、周囲の水を集めて固め、さっきまで持っていた自身の剣を再現した。
「―――そうかよ」
織火はアンカーを伸ばす。
左腕を上げようとしたが、傷のせいでうまく持ち上がらなかったので、アンカーのチェーンを右腕にぐるぐると巻いた。
リネットは止めようとして―――それをやめた。
この戦いは、ミカミオルカの始めたものだ。
たとえ結末がどうなろうと、決着を汚す権利はない。
少なくとも、自分はそう教わって戦ってきた。
チャナは、初めから止める気がない。
だが―――それならせめてと、用意を始めた。
夕日は、ほとんど沈んでいる。
広がりつつある夜の闇に抵抗するのは、ふたつの青い輝きだけ。
ひとつは人の。ひとつは魚の。
〈グラディエイター〉が咆哮し、泳ぎ始める。
もはや、目の前のものを獲物だとは思っていない。敵や、縄張りを争う同種だとも思っていない。
怒りと恐怖は、この魚にいかなる判断も許さなかった。
―——殺す。それだけの性能。それだけの機能。
織火が走り出す。
スロープを作り出す体力はないが、せめて加速が欲しかった。
右腕に巻いて余ったアンカーの先端が、水面に触れる。織火は、そこに波を作った。ただの強い波。それが背中を押してくれたとき―――織火は小さいころに行った、科学博物館のことを思い出した。
そこで習ったこと。波は、海が本来持っている機能らしい。寄せて返し、海を海として成り立たせる。
そのとき、近くにいたのは誰だったろうか。両親だったかもしれないし、担任やスプリントをしていた友達、主治医の先生だったかもしれない。
それは思い出せないが、別のことを思い出した。
同じ博物館は、明日の予定でクラスのみんなと行く場所だ。
織火は、波ではないものが背中を押すのを感じた。
そして、真っ直ぐに向かってくる水の刃を―――ボロボロなはずの右腕で、当たり前のように粉砕し、〈グラディエイター〉の頬をとらえた。
「―――ッ!!!!!!」
最大噴射。
織火はそのまま加速する。
もはや叫びも上げない〈グラディエイター〉を引きずったまま、波に押されてひたすら―――ひたすら加速する。
右腕に巻かれたチェーンからほとばしるパルスと共に、漆黒の海を走り続ける。
「・・・・・・・・・・・・流れ星みたい・・・」
リネットは、思わずそんなことを呟いた。
螺旋を描く光を尾に引き、夜を裂いて流れていく、
上空の輸送機からカプセルが投下される。
落下地点で水質が凝固し、海に柱を立てた。
『ゴール・フラッグだ。きっちり切ってきな』
流れ星は速度を上げて落ちて行き、やがて地表に辿り着き―――
「これで―――このレースは、終わりだ―――!!!!!!」
―――
〈グラディエイター〉は柱にめり込み、その横を最大ブレーキをかけながら織火が遠ざかる。
その速度が人間のものに戻り、静止したとき・・・水へと戻る柱を吹き飛ばして、〈グラディエイター〉はついに爆散した。
舞い飛ぶ水に、光る青が反射する。海にもうひとつ夜空があるようだ。
ぼんやりとそれを見上げる視界の彼方。
ライトアップされたスカイツリーが小さく映ったのを見て―――織火は、今度こそ完全に意識を手放した。
「計測完了―――おめでとう、御神織火」
チャナはリネットが織火を回収しに行くのを見ながら、さきほど止めたタイマーを見る。
スピード・レコードは世界新。
公式記録者不在につき、非公認。
≪続≫
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