第1章 -9『異なる者への報酬』
―――夢を見ていた。
忘れようとした、忘れられない、もう忘れない、その日の夢を。
「織火。あなたは自慢の息子だと思っているわ」
母さん。
「だけど、私は―――ううん、あなたが悪くないのは分かっているのよ。
分かっていることと、それを受け入れることは、きっと違うのね・・・」
ああ、そうだね。
それは―――今なら、俺にも少し分かるよ。
「納得してなんて言わない。恨んでくれてもいいの。
それでも私は・・・もう、こんなことは限界なの」
そうだね、母さん。
俺はもう、みんなのようにスプリントができないんだ。
俺はおそろしいものを呼んでしまうから。
俺は得体の知れない力を持っているから。
俺が―――
「あなたは、みんなと違うから。
悪いけど、これ以上スプリントをすることは―――」
―――ああ、ひとと異なるってことは、きっとそういうことなんだ。
そう思い込もうとしたとき・・・俺は病を患った。
ある種の、心因性の健忘症。
覚えたくないことは、覚えない。
覚えていたくないことは、忘れてしまう。
強く覚えていようと思ったことだけが、俺の世界に残るようになった。
でも・・・なあ、母さん。
友達になりたいやつらが出来たんだ。いっぱいできたんだ。
覚えていたいと思うことも―――きっと、増えていくと思う。
だけど・・・・・・・・・それでも、その事実は変わらない。
異なるっていうことは―――
「―――かあさん」
織火は、頬に線を引く水分の感覚で、目を覚ました。
ここは―――どこだろう。
自分の寝ているものと同じベッドが複数台。かなりの数だ。
それと医療品や道具の入った棚。大きなディスプレイを備えた机がいくつか。
学校の保健室ではない、ということは。
「・・・・・・・・・医務室か?」
「―――オルカさん?起きたんですか?」
入り口のところから声をかけられた。リネットだ。
戦闘中に着ていた耐水スーツではなく、ジャージのような服装をしていた。だが、自分の学校のジャージのようないもったい感じはない。
いわゆる、スポーツカジュアルというのだろうか?
「ここは?」
「旧東京、第四セーフエリアです。あれから十数時間ほど経過しています。
一時は出血が酷かったですが、もう・・・命には、別状はないでしょう」
「クラスのみんなは?」
「みなさんは、第五セーフエリアへ収容されています。
全員の無事が確認されていますから、安心していいですよ」
「そう、か―――」
深く、安堵の息を吐く。
寝ている間も緊張は続いていたんだろうか、虚脱感が全身を包んだ。
「助けてくれて・・・本当にありがとう、リネットさん」
「お礼なら、アクトゥガ副隊長にも。輸送機を飛ばしてくれたのは彼女です。
もっとも、運転の荒さで若干出血が増えましたが」
「マジかよ」
冗談めしかて言いながら、織火は改めて自分の腕の状態を確かめようとする。
左腕は、肩からガッチリと固まっている。恐らく鎮痛剤か何かが効いているんだろう、痛みはピリピリとしたものだった。
次に右腕を確かめようとして―――織火は、その右腕が、うまく持ち上がらないことに気が付いた。
「―――――――――」
それを理解するのに、それほど難しい知識や情報は必要ない。
自分でも、そうなるかもしれないと思ってのことだった。
リネットも、織火の視線に気付いて、顔を伏せた。
「私たちは―――あなたを、止めませんでした。
それどころか、武器と手段を与えたのは私たちです」
「・・・いいよ、リネットさん。
元々、覚悟の上だった。
これはきっと、そう―――身の丈に合わない目標のツケみたいな、」
「おぉい!!いるかぁ!?」
入口のドアが軋みを上げて鳴る。
織火の言葉を無理やり止めるように、見知らぬ男が乱暴に入室した。
無造作に伸びた髪と無精ヒゲ。粗野な雰囲気。
膨れ上がった筋肉ではない、細く引き締まった体型をしている。
「お・・・よしよし、ちゃんと死に損なってるな」
そういって織火を見る。
射貫くような―――そしてどこか試すような―――そんな目だった。
男を目にすると、リネットは一瞬で居住まいを正し、一礼する。
「グラッツェル隊長、お疲れ様です」
「おう、お前もご苦労だったな。
で、あー・・・ちょっと外してもらえるか?聞かせるような話でもねぇ」
「了解」
リネットは織火に軽く会釈をすると、医務室を後にした。
二人きりになった医務室に、謎の沈黙が流れる。
やがて面倒そうに頭をかきながら、隊長と呼ばれた男は切り出した。
「―――あーっと。こういうときって、まず自己紹介なのか?」
「えっ?・・・っと、まぁ、そう・・・だと、思いますけど」
「なるほどな、じゃあ・・・っこいしょ」
向かい側のベッドにどかりと腰を下ろす。
「俺は、オリヴァー・グラッツェル。
「グランフリート・・・・・・・・・って、船上国家グランフリート!?」
「そうさ。ま、国としちゃあ、まだまだヒヨッコってもんだがな」
―――グランフリート
水没後に建造された同名の超巨大船を、そのまま国土とした新興国家。
ほんの十数年前に国として成立したばかりだが、今やニュースや紙面でその名前を見ない日は少ないというほど、急激に成長している。
驚いた様子の織火を見て、オリヴァーはからからと笑った。
「ビックリしちまったか!
チャナのやつが『結局ちゃんと説明してねえ!!』って言ってやがったからな!
公にはなってないが、グランフリートは巨魚研究のトップグループでな。
各国の巨魚討伐組織の元締めみたいなことをうちがやってんだぜ」
「そうだったのか・・・。
けど、オリヴァーさんたちはその感じだとその・・・いわゆる直属ってやつか?」
「そうなるな。本拠地も、自分の家もそっちにあるぜ」
「どうして、わざわざ日本に?」
疑問に対し、オリヴァーは真剣な表情を作った。
真っ直ぐに織火を見ながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「日本に、少々普通と違う反応があってな。
同じ反応は今、世界各地で続々と見つかっているが・・・
巨魚が、そこでは明らかに異常な動きをするんだよ」
「異常な動き・・・?」
「巨魚は普通、船は襲わねぇんだぜ」
「・・・?・・・いや・・・それは、変だ」
巨魚に襲われて漁船やら貨物船やらが沈んだなんてニュースは、全く珍しくない。だからこそ巨魚は、水上を生きる今の人類にとって大きな脅威として認識されるに至っているはずだった。
「より正確に言えば、巨魚は人間しか襲わねぇんだよ。
巨魚に沈められた船は全て、人間が表に出て仕事する必要のある船だ。
沈められたのは結果に過ぎねえ。
まぁ砲撃やらに対抗するために反撃を行うことはあるがな」
「人間が、表に―――あ」
そこまで聞いて、織火は思い出した。
自分たちが乗っていたあの観光バスは、人間が全員船内にいた。
わざわざ、外に出る必要のある作業もない。
「それだけじゃねえ。
俺たちの到着が遅れたのは、より大きな群れが、スカイツリー周辺とは
かなり離れた位置に立て続けに出現したからだ。
重要なポイントから俺たちだけを引き離すみてぇにな」
織火は、背筋によく冷えた鉄でも突っ込まれたような感じがした。
あの観光バスを襲った巨魚。
自分を追ってきた巨魚。
文字通り身を投げうって倒した巨魚が、習性ではなく―――
「―――巨魚は、そこまで知能が高いのか?」
「いいや。
どれだけ狂暴でも、奴らは通常、ただの魚だ。
狩りや営巣の技術が高いやつはいても、ここまでじゃねえ」
「つまり。今回みたいな動きは―――」
「間違いねえ。誰かがやらせてる。
それが何かまでは、分かっちゃいねえがな・・・」
織火は、胸の中に冷たさと熱さを同時に感じた。
何が目的なのか分からなくても、簡潔な事実がある。
そいつは何かの目的があって―――あのバスにいる、御神織火を襲った。
「・・・なァ織火。ひとつだけ、聞いていいか?」
青ざめた織火を、オリヴァーの質問が引き戻した。
真剣な表情だった。深く息を吐いて、自分も目を見返した。
「どうぞ」
「お前さ、何でそんなにしてまで戦ったんだ?
単純な自己犠牲じゃあ、逆にそうまでにはならねぇと思うんだが」
―――それはある意味・・・懺悔に近い。
これまで眠らせてきた、自身の精神を彫刻した跡。
その全てを吐露する行為だった。
「―――みんなは・・・みんなと、違わないから」
「・・・あ?」
「俺は―――
生まれつきこうだった。
だから、どんなに仲が良くても、本当のところでは繋がってなかった。
俺はみんなとは違う・・・それだけは、変わらないことだ」
自分よりスプリントがうまい人間も。下手な人間も。
両親や先生や、たくさんのクラスメイトも。
誰一人、そこが同じな人間には出会えなかった。
「でも、クラスのみんなは、そうじゃないんだ。
普通に生きてきて、共有できる体と心があって―――
俺は苦しくて逃げたけど、そんな必要もない友達がいるんだな、って」
春太郎は、みんなと仲が良かった。
それはきっと、より多くの人間と同じだったから。
ユーイチの不安に、多くの人間は声を上げなかった。
それはきっと、同じ気持ちの人間がたくさんいたから。
「思ったことも、あるんだ。
誰かひとりでも、巨魚に大事な人を殺されてれば―――
誰かひとりでも、掴みかけてた夢を潰されてれば―――
俺は、そいつとだけは分かり合えるのかもしれない、って」
同じ傷。同じ涙。同じ悲しみ、怒り。
取り戻せない、同じような時間。
「だけど、そうじゃない。
だからこそ、俺は・・・誰も俺と同じにしないために。
誰も、こんな俺と分かり合うことのないように。
何が何でも、あの巨魚を倒そうって、そう思ったんだ―――」
悲しみの共有なんて、悲しい。
痛みの共有は、痛い。
そんなのは御免だ、と。
そんなことは、しないほうがいいんだと。
それこそが―――御神織火の、忘れ得ぬ過去への回答だった。
「―――みんなと違う、か」
聞き終えたオリヴァーは、立ち上がって、今度は織火の隣に腰かけた。
動かない右腕を持ち上げて、拳を握らせ・・・自分の拳を、こつんと打ち合わせる。
「・・・じゃあよ、お前。
みんなと違っててよかったじゃねぇか」
「え?」
「もし、お前がみんなとおんなじだったら・・・あそこで食われて終わりだろ?
お前がみんなと違う、から。
だから、全員無事で助かったってことだ」
「―――あぁ、」
どうしてだろう。
織火は何かを否定したかったのに、声が出なかった。
動かない腕ごと、全身が震えてくる。疲れのせいか喉が渇いた。
「春太郎だったか?アイツ、ずっとお前の名前ばっか呼んでたぜ。
予備バッテリーも、せめて!って言って自分のポーチに入れてよ。
『アイツは普通と違うから、どんどん無茶しちゃいそうだ』、って」
たとえば―――自分がみんなと違うとしても。
違うのだという、それが自分なのだという、理解だけは―――。
「―――・・・あぁ・・・」
「異なることを、誇りに思えよ。
その孤独は・・・お前だけの、戦いの報酬だ」
そう言って、オリヴァーは部屋の隅で煙草を吸い始めた。
織火は―――再び、ここがどこだか分からなくなった。
ベッドが見えない。机や、棚や、床も見えない。
感覚のない右腕だけが、目を塞ぐのが涙なのだと知っている。
≪続≫
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