第5章 -20『秘密は曇天に似て』
織火のテストが終わった、その夜。
時刻は23時を回って間もなく。
閉館時刻を過ぎた新国連巨魚対策室。
明かりの落ちた廊下には、水槽の内側を照らすライトだけが仄暗く光っている。
そしてその薄明かりが、人間のシルエットを黒く映す。
選別官ジャッジ―――いや、今は素顔を隠していない。
真川春太郎が、無人でなければならない廊下を歩いている。
足取りは重苦しく、しかし静寂は足音だけを軽快に反響させる。
靴の音と、ごぼごぼという水槽の排気音が、いびつな和音を奏でた。
本来は―――そこに存在する人物は真川春太郎だけであり、また、それ以外の音が発生する理由がこの空間にはない。
・・・にも関わらず、それは唐突にあらわれた。
水槽の内側。
人間をむりやり伸ばしたり曲げたりしたような、不気味な輪郭。
それは空間的に繋がっていないはずの複数の水槽を、春太郎と並行して泳ぐ。
ぴたりと横、全く同じ速さ。まるで紐か何かで繋がっているよう。
ごぼごぼという音に混じって、空気の振動を介さない声が響く。
〈ジャッジ、ジャッジ、なぁジャッジよ。なぁ。
どうだ調子は?どうだ?馴染んでいるか、俺に・・・俺との適合は?〉
「―――まぁな?ここ数日は悪くない感じになってきたけどよ」
春太郎は足を止め、水槽の中の存在をびしりと指差す。
「いつも言ってんだろ、いきなり出んなよお前!
ただでさえシチュエーションがホラーなんだからさぁ!」
〈グァーフフフフ・・・無理な相談、できない、できない相談だ。
あと、俺がゆっくりとじっくりと出ればそれはそれで怖い・・・〉
「いやそれはそう、マジでそうだけど!
心臓に悪いんだよぉ・・・!」
『心臓』というワードを聞き、影はいっそう不快に笑った。
表情が見えないが、きっと目は細長く歪んでいるに違いない。
〈アハ、ウフハハ、アハフハハ!何をいまさら!
心臓に俺を招いたのはお前だぞジャッジ。
なぁジャッジ、もうとっくに、既に既にお前の心臓は悪しきそのものだ〉
「うるせぇな、分かってますっての・・・」
神経を逆なでる笑い声を気にする素振りもなく、春太郎は目的地に着く。
そこは、5番と書かれたダストシュートだった。
当然、それ以外のものは何もない。付近には部屋すらない、施設の外れだ。
春太郎は、ダストシュートのすぐ横の壁に顔を近づけ、目を見開く。
壁面に隠された網膜センサーが、グリーン・・・認証成功の表示を返す。
『どなた?』
「ジャッジでーす」
『今あけるわ』
透明なアクリル板の扉に高精度のプロジェクション・マッピングで投影されていたダストシュートの幻影が消える。ドアは自動で左右に開かれた。
この極秘研究棟には、気の利いた出迎えなどない。
表と変わらず、水槽が並んでいるだけ。
違うのは―――その、中身だ。
ある水槽には、頭部が二つある〈ヘッドスピアー〉がのたうっている。
ある水槽には、おびただしい数の巨魚の骨が沈殿している。
はたまた別の水槽には・・・巨魚のような、人間のような、何かがいる。
ここは、ある女の欲望の城。
巨魚にとりつかれた女。人類より巨魚を愛する女。
それでいながら、あくまで人類であろうとし、人類に貢献する女。
破綻した倫理。矛盾する正義。
それらに釣り合いを取る、深く強い狂気。
「こんばんわ、ジャッジ。
ちょうどいま、遅い夕食を取ってるところよ♪」
マーヤは今日も巨魚を食っていた。
毒か熱で焼けているであろう胃のあたりをうっとりとさすりながら、恍惚の表情でマーヤは巨魚を食う。
「おっ・・・ぅお、おぐぅうう、熱ッ、がふ、熱いィ・・・ッ!!♡♡♡
おいしい、おいしい・・・おいしいィイイッ・・・!!♡♡♡
んがっ、がっ、がっふ・・・ぐうううっ・・・!!♡♡♡」
その喉からは苦痛にうめく声すら漏れているが、決して口を止めない。
青白い血液を口いっぱいにべっとりと塗りながら、厚い化粧が顔中へにじみ落ちるのも構わず、醜悪に喰らう。喰らう。喰らう。
これが、新国連巨魚対策室長マーヤの正体。
巨魚の摂食に取りつかれた異常者である。
―――そして、真川春太郎は改めて自分の立場を顧みる。
まさしく今、自分はこの女と同類、あるいはそれ以下の男なのだと。
しばし食後の恍惚感に浸っていたマーヤは、落ち着きを取り戻して口をぬぐうと、まるで世間話のように切り出した。
「心臓に埋めた
春太郎は今日―――マスクをしていない。
素顔を空気に晒している。
灰色の、髪。
灰色の、瞳。
「あー・・・まぁ。
それなりに、悪くないと思いますけどね」
うっすらと陽炎のように。あるいは、曇天を覆う雲のように。
灰色のパルスが、薄く身体を包んでいた。
≪続≫
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