第1章 -3『イカリ』

 青い電光が海面に蛇行する尾を引く。

 鈍銀の鱗が、群れを成してそれをちぎる。


「ちゃんと追ってきたか・・・!」

 

 織火おるかは自分の背後に荒れ狂う波の集合体を認め、ひとりごちた。

 さきほどのバスへの体当たりを見るに、恐らく一匹一匹のパワーは、それほど強いわけではない。全てを引き付けられなくとも、時間稼ぎは果たせるだろう。

 とはいえ、生きて逃げ続ければの話だ。武器もなければ、防具はもっとない。

 とにかく追い付かれないことだけが役割だと、織火は自分に命じた。


 織火は背後を確認するのをやめて、姿勢を一段低くした。体全体を左右に少しずつストロークしながら、両腕を振る。

 ジェットブーツの操作は、かかとの内側にあるペダルの微妙な調整で行う。

 一歩ずつ、一挙手一投足ごとに、強くペダルを踏みこむ。やがてウェアに包まれた肌が風の重みを訴え始めたとき、その体は人間に備わっていない高速性を獲得した。


 一匹のが、群れから離れて織火に迫る。

 右側から回り込み、ぴたりと織火の横へ。背びれが完全に水中へ沈む。一瞬の間。


(来る!)


 とっさ、倒れるように左へ身体を傾けフルパワー噴射。同時にカーブ、飛び込んでくるサメの横腹―――!

 間髪入れず逆側からもう一匹、急加速で逃れる。ぶつかり合う二匹、爆発のようなしぶきが背後で弾けた。

 水滴を背中に感じた矢先、足元に影。横長のシルエットは倒れながら徐々に面積を減らし、ぎらつく角だけを日の光がそこに残した。


(やべぇ、真下からッ―――!!)


 波を拾って跳躍。両足を前に伸ばして逆噴射、急ブレーキ。

 一秒前までいた場所からサメが角を立てて

 落下。爆音。波。


(づ・・・ッ痛ぅ・・・!!)


 急激な逆噴射に膝の骨が軋む。痛みに励起されて発生した電流がその場に残留し、まるで羽虫を誘う電灯のように、数匹の一角ザメがそこへ殺到した。

 



 ―――もはや疑う余地はない。

 この電流が、巨魚ヒュージフィッシュを惹き付けている。




(今だけは感謝する・・・!

 とにかくこのまま逃げ続ければ―――)


 そうして十数分、織火はさらに数度の攻撃をやり過ごした。

 次第に『競争相手』の動きのクセを掴み、痛む膝を庇いながらでも最小限の動きでこれをクリアしていく。感覚が、競技に打ち込んでいた時代に戻りつつあった。

 

 高速走行が、アドレナリンを分泌する。

 危機的状況に置かれているにも関わらず、織火はどこかに喜びを感じていた。

 長らく奪われ続けてきたスプリントが、今、こんなにも近くにある。

 

 ―――それが、都合の悪い考えを頭からはじき出していることに、織火は気付いていなかった。




 突如、進行方向から爆音と共に波涛が上がる。


(な・・・)


 織火は背後をちらりと見る。変わらず鈍銀の群れがそこにはいた。

 背後にいるのに、前にもいる―――不思議なことなどひとつもない。

 シンプルで絶望的な結論。


「―――こっちでも待ち伏せしてやがったのか・・・!!」


 前後の群れがかたまりから個々へと別れる。それぞれが同一の目的のもとに、同じ方向へと動き出す。

 ぐるり、ぐるり、ぐるり。

 織火は完全に囲まれていた。


(ちくしょう、どうする―――どうする!!)


 どうする、と念じていながら、頭の中では分かってはいた。

 打つ手など、ない。武器も防具もなく、ただひとつ頼みの綱だったスピードさえ、こうなってしまえば意味はない。

 逃げ場は次第にせまくなる。誰がどのタイミングでのどぶえを千切るか、はたまたそのか細い胸や腹を突き破るのか、相談でもしているのか。

 黒い魚影がひとつの円になるにつれ、その泳ぎは残酷なほどゆったりになった。


 織火は、己に失望した。

 一時とはいえ、水を走る快楽に身をゆだねた自分自身を。

 

 ―——黒い円が迫る。


 織火は、疑問を抱いた。

 どうして、俺はこんな体をしているんだろう。巨魚はどうしているんだろう。

 

 ―——黒い円が迫る。

 

 織火は、運命を呪った。

 夢が潰えて、名誉も奪われて・・・ついに身体まで壊れて、命まで失うのか。

 

 ―——円は、もうすぐそこだ。

 黒しかなかった影に、ちらちらと光る、白い角。




 織火は、その角を見て。

 急に、胸に言葉が燃えるのを感じた。




「・・・おい、お前ら・・・!」


 ・・・春太郎の顔が浮かんだ。

 あんなに怖がっても、自分を庇った。

 特別俺が好きじゃないとしても、きっとそうするんだろう。

 みんなに好かれている、人気者だ。

 

 ・・・自分を罵った、あの生徒が浮かんだ。

 きっと、生き残りたいだけだった。

 生きたくて必死な人間を、どうして責められるだろう。

 

 ・・・泣いていた女子生徒が、励まし合っていたクラスメイトが、次々に浮かんだ。

 

 そして―――あの日の悲劇が、焼け付くように瞼の裏を離れない。

 今、織火の中にあるのは、明確な怒りだった。



 御神織火には戦う武器がない。それが許せない。

 御神織火には身を守る装備がない。それが許せない。

 御神織火にはこの場を逃れる術がない。


(———なんでもいい!なんでもいいんだ!

 奇跡でも、偶然でも、どれほどおかしなことでもいい!

 俺にくれ!俺に今―――!)














『―――マァァァァイクッ・・・テェェェェェェスト!!!!!』











「んな―――!?」

 エンジンの轟音を響かせて、不遜極まる鉄塊が、太陽の邪魔をする。

 その声は、遥か上空から響き渡る。

 輸送機だ。


『ヘェイ、ヘェイ、ヘェェェェェェイ!!!ギリギリだったようだねぇ!!

 まずは最初間に合わなくてマジごめん、誠心誠意ごめん!!

 少年!!プロフェッショナルでもないのによく頑張った!!

 ウチらは巨魚退治の専門家ってところです、あがめろ』


 すごくうるさかった。雰囲気が完全にどうかしていた。

 だが、言っていることが正しければ。


「援軍ってことでいいのか!?」

『マイクも付けてねえお前の声はきこえねー!!!!!!!!

 でも、おおよそ言っていることは分かる。多分そうだよ!!!!!!』


 もう本当にうるさかったが、織火はひとまず気にしないことにした。

 逃走劇はようやく実を結んだらしい。

 恐らくあの輸送機から人員を投下するのだろう。これで、あとはどうにかもう少し逃げて、倒してもらえばいい―――が。


『あと、ちょっと事情があって今、この輸送機にはウチしかいないよ☆

 重ね重ねごめんしてねー!!!!!』

「はあ!?話が違う!!あとちょっとうるさいぞお前!!」

『そのかわり、ちょっと真剣に聞くけど。身振りで返してね。

 ・・・逃げようという素振りがさっきなかったね。

 あの瞬間は―――戦う覚悟があったと思っていいの?』


 言葉に偽りはなく、声色は真剣になった。

 問いかけに、織火はもう一度自分の胸の内を探る。

 そこには、この状況でもまだ、怒りが燃えていた。


「ああ―――こいつらが許せない。

 無茶なのは分かってる。それでも、俺は・・・自分自身の手で!

 こいつらを倒したい!みんなを、守りたい!!」


 意思を込めて、織火は天の声を見つめ返した。

 

 返事のかわりに、輸送機からふたつの物体が投下される。

 ひとつは、鋼鉄の筒・・・拡散式の小型魚雷。着水と同時に発射、迫っていた巨魚の群れを、爆発で再び個々の単位に散らした。

 

 遅れて織火の近くに投下されたのは、コンテナだった。自動でハッチが開く。

 収容されていたのは、プロテクターとヘッドギア。銃のような武器。

 そして―――。


「これは・・・アンカー?」

『珍しっしょ?今の船には、こういうイカリは積まれてないからねぇ。

 まぁともかく、これで』

「これで―――」


 織火は、言われるまでもなく装備を身に付ける。

 さっきまで上空から聞こえていた音声が、ヘッドギアから聞こえてくる。


『使い方は実地でレクチャーする。付いてこられるかな、少年?』

「へっ」


 怒りが脳を活性化させ、アドレナリンが再び満ちる。

 いよいよ荒れ狂う暴威の波を前にしながら、織火は今度こそ笑った。




「俺はワールドクラスだ。

 誰だか知らねえけど、お前が付いてこいよ―――!!」




 ふたつの爆発。戦いが始まった。


                            ≪続≫

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