第6章『凍える虹の悪魔』

第6章 -??『その後の話』






 ―――そうして、再び。

 私ことチャナ・アクトゥガは、この山を登っているのだ。






 まぁ山と言っても、大地も草木もありはしない。

 そういう形の氷の塊。つまり氷山だ。

 足を乗せたって滑りもしないほど冷えて乾いた斜面に、一回一回ピックを刺して、ゆっくりと頂点を目指す。




 その道のりが、この小さな体にはあまりに長いから―――私は、ここに至るまでの経緯を思わずにいられなくなってしまうのだ。


 今はまだ、それは鮮明な光景としてまぶたに焼き付いている。

 だけど時間は偉大で残酷、そして殺意が湧くほどに、お構いなしの乱暴者だ。


 例えば来週には、それは経験になるだろうと思う。

 例えば来月には、それは記憶になるだろうと思う。

 例えば来年には・・・そのまた来年、さらに来年・・・いくつもの来年を重ねて、これは思い出になっていくのかもしれない。

 

 


 それほどまで先のことは・・・まだ、分かりたくもないし。

 その勇気がまだ私にはないけれど。




 思考に反して手足は動くし、肌は鋭敏に天候の変化を感じ取る。

 うっすらと服の下の肌をこわばらせていた吹雪は、もうじき止むようだ。


(この分なら、待ち時間は短くて済みそうかな)


 心配だったことが減って、ほんの少し気持ちが軽くなる。

 ピックを刺した部分が少し崩れ、軽くなった気持ちと、もともと軽い体を重力にぽーんと投げ出す。


「おわっ、わわヤバッ!」


 滑り落ちる寸前の体をピックで支えて、どうにか怪我を免れた。

 いけない、わりと危ない登山―――登山?登氷とひょう?―――まぁ、どっちでもいいかそんなの別に・・・わりと危ないことをしているのを忘れそうになる。


 でも仕方がないのだ。

 一番よく見える場所はそこなのだ。

 一番がわかってるのに下位互換に甘んじるなんて全くおバカの所業、チャナさんはそういう半端はしないのである。


「はっはっは、褒めろ~」


 もちろんここには私しかいない。ひとりごとです。


 ・・・だけど実際、誰でもいいから私のことを褒めてほしいものだ。

 褒められるようなことをしたと思うし、してると思う。ずっと。

 ウワーン、ちょっとぐらいチヤホヤされねーとやってらんねーぜー!


 ―――ああ、そんなこと思ってる間に吹雪が止んだ。

 荒れ始める前に青かった空には、黒が増え始めている。

 携行ライトの電源を入れる。より慎重に足場を選ぶとしよう・・・。




 ざく。ピックを刺す。

 どす。足を進める。

 ざく。ピックを刺す

 どす。足を進める。


 異なるふたつの音が規則的に鳴り続けると、それは足音の数を二つと誤認させる。

 

 しかし実際に足音が二つあれば、そもそも音など意識しない。

 絶対に会話があるし、音が鳴るテンポは一定じゃない。

 ひとりひとりが違うペースで歩き、止まり、違う声色で話す。

 そうして、その心地よいズレを楽しみながら、目指す場所だけが同じだ。

 

 人は、みな異なるのだ。

 異なっているのに、どうして寄り添ったりするんだろう?

 この質問に『のに』を返すか『から』を返すかも・・・やはり異なるのだろう。

 

 今は、その事実が愛おしい。




「―――ついた」


 頂点は尖っていて座れたものじゃないので、少し削って平らにする。

 ひとりぶんのスペースに、シートを引いて腰掛ける。

 

 持ってきたボトルの中身は、エッセが淹れてくれた紅茶だ。

 本当は酒をちょろまかしてこようと思ったけど・・・今日は、こっちで正解かも。


 冷えた肌と胸を温める紅茶は、とてもおいしい。

 最初はわからなかったこの味にも、ずいぶん馴染みができたものだ。




 ―――まだ、目的のものは姿を現さない。

 空が明るすぎるんだろう。もう少し、夜を待たなきゃいけないみたいだ。




 待っている、この間に。

 もう一度だけ―――私は、そのことを考える。


 けど、考えているだけじゃ寂しいから、声に出してみようか。

 どうせここには私一人だ、それもいいだろう。








 ―――ねえ。

 これを見ているあなたにも、聞いてほしいんだ。


 寒い寒いこの国と、ある悪魔のおはなし。

 私のぜんぶを壊して、ぜんぶを作った―――凍える虹のおはなしを。








                              《続》

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