第7章 -10『霞む螺旋の摩天楼』


「オルカは、ベネツィアがどういう街なのか知っているかい?」

「基本的なことは一応」


 デア・ヴェントゥスの甲板。

 到着を目前にして、レオンは織火に目的地を問う。

 ふたりは、この時間の目視警戒担当だ。

 

「新国連本部がある街で、世界有数の大都市。

 水路の技術が進んでる。あと特産品はイカスミ」

「ふむ、確かに基本は押さえてるな

 で、えーっと?きみは歴史には特に興味がなかったんだっけな?」

「まぁな」

「そうか・・・」


 ―——沈黙。

 レオンは行き場なく目線を彷徨わせる。


「・・・・・・・・・え何、したいの?」

「何故わかったんだい!?」

「分からないと思ってんのかお前・・・まぁ聞くのは別にいいよ」

「そうかい!!?」

「うるさコイツ」

「それでは、うおっほん!!!!」

「うるさコイツ」


 レオンはわざとらしく咳払いをして、話し始めた。


「ヴェネツィアを語るならまず、イタリアという国について語る必要がある。

 というのも、イタリアは―――」











 ———『大水没フラッド・ハザード』による被害が、世界で最も大きかった国はどこか?

 この問いには観点により諸説あるが、イタリアを挙げる者は多いだろう。


 保有していた国土の全てが沈んだ地域・・・いわゆる『完全水没地域』であることは当然として、イタリアの苦難はそれに留まらない。

 世界的に水上建築のノウハウが醸造された時期にあっても、定期的に海に発生する大渦により大規模な破壊がもたらされ、復興は遅々として進まない。さらにそこへ、生命を脅かす巨魚が、昼も夜もなく襲来する。

 はじめのうちは意気に満ちていたイタリア人の生き残りたちも、10年が経つ頃はもうすっかり弱って、イタリアという国を諦めかけていた。


『人は所詮、海には勝てない』

『その恩恵を受けることはできても、打ち破ることなどできはしない』


 誰もがそんな想いを抱え始めたとき、ベネツィアにひとりの男が現れた。

 鋭く厳めしい隻眼の青年はなんでも、新たな国際連合とやらのリーダーらしい。


 国際連合など、我らの仮宿が渦に飲まれるのを見ていただけの連中ではないか!

 そんな言葉すら交わされるほど荒み切った復興作業員たちには一瞥もくれず、男は手早く人員を招集すると―――奇妙なことを言い出した。




「ちょうどいい。あの渦を




 それは馬鹿馬鹿しいとすら思えない、全く意味の分からない言葉だった。

 だが、イタリアはその意味を、語り継がれる大恩として知ることになる―――。











「———渦を・・・使う?」


 半分だけの横耳を傾けていた織火は、その突飛なワードに思わず反応する。

 恐らく今、自分は当時のイタリア人と同じ顔をしていると織火は思った。


「この話を始めて聞いたときはぼくも同じ顔になったなぁ。

 恐ろしい方だよ、あのサイラスという人物は」

「まったく意味が分からん」

「実際に見た方が早いかもしれないな。

 といっても、ぼくも実物は今日が初めてになる。今から楽しみだ」


 それだけ言うと、レオンは目視警戒に戻ってしまった。

 歴史そのものに興味はないが、例の言葉の意味が気になって仕方がない。

 なるほど、いい目覚ましになったと織火はひとり納得した。






『———ピン、ポン、パン、ギャオオオオオオオオン!!!!!

 間もなくベネツィアに入るッス!!

 しばらくは霧が深いから、特に注意して下さいッス!!』


 不必要に元気なノエミのアナウンス。

 身を起こす織火の背後、交代で休憩を取っていたレオンが立ち上がった。


「さぁて、いよいよ初上陸か!」

「『上陸』って言葉、こんな時代だし変えたほうがいいよな」

「安直に変えようとするとシャンハイになってしまうぞ」

「ちょっと面白いこと言うのやめろ」

「ははは」


 軽口を言い合っているうち、周囲がだんだんと霧で白く染まってきた。

 



 お互いの顔がうっすらとしか判別できないほどに深くなると同時に・・・進路上に、色とりどりの光が見え始めた。


 それははじめ、ほんの数個の光に見えた。

 多くは青白く、ときおり黄色、あるいは赤や緑が混じっている。


 霧は、中心に向かうごとに晴れてくる。

 そして織火は、その光のひとつひとつが、より小さな光の集合によってできていることを認識した。膨大な、あまりに膨大な光が、遠近を伴って横へ上へと伸びる。


 少しずつ、少しずつ・・・霧はそのヴェールをまくり取られていく。

 数多の光が作り出すシルエットの正体。

 それは、無数の窓を誇示するタワー。


 

 

 ———ごう―――ごう―――ざああ―――




 織火は、音を聞いた。水の音だ。

 強い、あまりに強い流れが、絶えずそこに在って脈動しているような。

 ぐるぐると周っているような。そんな音だ。

 音は織火の感覚を鋭敏にさせ・・・素肌に触れる霧の、冷たさを伝えた。


「これ・・・水しぶき?」


 呟くと同時、デア・ヴェントゥスは霧吹く水のカーテンを抜けた。






 その都市は―――都市それよりも巨大な、渦の中心に築かれた。


 海を下から貫くようにそびえ立つ、世界最大規模の高層ビル群。

 絶えぬ流れを組み上げた頑強な水路が、螺旋を描いてその周囲を巡る。

 渦はそれそのものが強固な壁にも、世界最速の駿馬にもなる。


 水満ちるこの世界で、最も絢爛、最も強固、最も気高い城塞。

 ———世に人は、この街をこう称える。




「これが―――ベネツィアの流水摩天楼か―――!」




 渦は荘厳に・・・あるいは禍々しく、御神織火を迎え入れる。

 ―——これから始まる激動を、暗示するかのように。


                           ≪続≫

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