第4話 『彼との距離』
依然、蒼汰はソファで眠りこけたままだった。
カウンターに置かれた、零の電話のバイブレーションが鳴る。
零はグラスを置いてサッと立ち上がると、電話を片手に長い足で階段を上がって行った。
彼を見上げる絵梨香の横顔に、波瑠が話しかける。
「絵梨香ちゃんが零をモデルにスカウトしたりしたのは、由夏さんから?」
「ま、由夏ちゃんから課されたミッションで、偶然……でも、まさか蒼汰の親友だと思わなくて、本当にびっくりした」
「あはは、面白いこともあるもんだな。もう何年前かな…由夏さんがまだ、零が蒼汰の親友だって知らない時に、やっぱり声かけてたんだよね。モデルやりませんか? って」
「やっぱり! 由夏ちゃんが見逃すわけないもんね! それで?」
「こっぴどく振られる、と!」
「あはは。まあ……あの感じだもんね」
「そうそう。でもね…」
波瑠の表情が少し陰った。
「波瑠さん?」
「零は…変わったんだ」
「変わった? 蒼汰もそんなこと言ってたような…」
「大学の時は好奇心旺盛で、何にでも意欲的で。バイタリティに溢れてたよ。だから会社も設立できたし、彼が思い通りに自分の地位を確立できたわけなんだけど」
「へぇ、信じられない。今はそんな熱い感じ、どこにも見当たらないけど……何か理由でもあるとか…?」
「あるにはあるけど…、まあ仲良くなったら、そのうち本人に聞いてみて!」
そう言って波瑠は蒼汰を起こしに行った。
零が戻ってきた。
「波瑠さんは?」
「あ、蒼汰を起こしに」
「ああ…でも、ああなったらアイツは中々起きないだろうな」
「確かに」
心もとない絵梨香とは反対に、零はグラスを傾けながら悠々と自分の時間を過ごしているように見える。
沈黙に耐えられず、思わずインタビューのような質問が口から出てしまう。
「あの…来栖さんの仕事って、ずっとパソコンに向かってやる感じなんですか? アプリを開発したりしてるって、波瑠さんが」
「まあ…アプリの方は、今俺が直接手を下す仕事なんてあんまりないな、ほとんどは部下がやってる。教育サイトやファッションコスメの体験型シミュレーションソフトの開発には、初期の段階から手を加えてるけど」
「そうなんですか、会社がいくつもあるって蒼汰が言ってので…」
「あのさ」
「はい?」
「蒼汰の友達だから、敬語を使わなくていい」
零がボソッと言った。
「あ、はい…じゃなくて…」
会話は弾まなかった。
でも当初のような気まずい雰囲気ではなく、ただ静かな中で時間を共有しているような、そんな気がした。
黙って飲んでいると意外にお酒がすすむ。
さっき波瑠さんに入れてもらったオレンジのカクテルが、もうなくなりかけていた。
曲が変わった。
イントロにぐっと心が持っていかれる。
大好きなナンバー。
酔いが一気に押し寄せ、ちょっと泣きそうになる。
頭の中がぐるっと回った気がして、思わずフレーズを口ずさみたくなる。
学生の頃、音楽ツウの友人が貸してくれた、年期の入ったCDジャケットを思い出す。
心揺さぶられる出会いだった。
それからは古いソウルやブラックにハマりまくって聴きあさって…。
いつか、生であの歌声を聴きたいと思っていたのに、あっさり亡くなってしまった無類のシンガー。
Ever since I met you
You're the only love I've known
And I can't forget you
Though I must face it all alone
彼からそのメロディーが聞こえてきて、思わず彼の方を向いた。
彼は憂いを帯びた目で真っ直ぐ前を見たままだった。
自分の声が出ていることすら気付いていないのかもしれない。
彫刻のような無表情で、ロックグラスの氷を揺らした。
グラスを置く際、自分の方を見ている絵梨香に気付いた。
お互い顔を向け合っている時でさえ、本当に自分を見てくれているのかわからないその目を見ると、瞳に吸い込まれそうになる。
走り出す思いとお酒の勢いを借りて、絵梨香は少し話し始めた。
この曲との出逢いについて、そしてこのシンガーを失ったときの喪失感を。
彼も古いポピュラーミュージックやソウルが好きだと言った。
彼に少し近づけたような気がして、なんだか嬉しくなる。
お酒も急に美味しくなって、ぐぐっと飲み干してしまった。
「そんなに飲んで…大丈夫なのか?」
まさか彼からそんな言葉が出るなんて、初めて出会った数時間前には想像もできなかった。
あの冷たい態度や冷たい表情から、少しは色味を帯びたような……そんな感じがした。
音楽の力はすごいなぁとしみじみ思う。
彼は依然マイペースで、大きな氷が一つ入ったロックグラスをちびちび傾けているだけだったが、その横顔からはほんの少しだけ憂いを取り払った、人間らしさが見えた。
波瑠がカウンターに戻ってきた。
「ダメだ、蒼汰は全然起きない」
「そういえば蒼汰ね、ここしばらく作家さんと寝食共にしてたらしくて…あんまり寝てないって言ってたわ」
波瑠はやれやれと、自分の前にあるグラスを口にした。
「そうか、じゃあもうちょっと寝かしてやるか。零、絵梨香ちゃんを送ってってやってくれ。彼女の家はここからほんとすぐ近くなんだ、駅の方向だからいいだろ?」
「はい、わかりました」
「え、いいわよ。近くなんだし…」
「ダメだよこの時間は。声かけ犯じゃなくても、飲み慣れてない男子学生に絡まれでもしたら大変だからね! 零、頼んだ」
立ち上がると急に酔いが回ってきた。
「絵梨香ちゃん、大丈夫?」
波瑠が少し心配そうな顔した。
「これくらい、全然大丈夫ですよ、ご馳走様でした!」
そう言って危なっかしく階段を上った。
零が彼女の後ろを黙ってついて行き、波瑠に向かって頷く。
波瑠は「頼む」と言わんばかりに片手を上げた。
ドアを開けると風が心地よかった。
火照った頬を冷やすように、閉めたドアの前でしばらくそよがれる。
「どうした? 行くぞ」
あんなに強いお酒飲んでも
全部酔ってないみたい。
私は… やっぱり酔ってるかな?
そう思いながら歩いていると、先ほどのパトカーを思い出した。
波瑠さんの話を思い出すと、やっぱり怖い…
そう思って来栖零を見上げた。
すると思いがけず、見下ろした彼と視線が合った。
不安な気持ちを悟ってもらえたかのような、ちょっとした安堵感が生まれて、彼に微笑みかけた。
彼は無表情のままだったが、眉が少し上がったような気がした。
この通りはコンビニもあって明るくて賑やかだが、それを南に渡って、絵梨香のマンションにたどり着くまでのほんの少しの間は、街灯があまりなく暗い道で、ただ川の流れる音が聞こえている。
道を見上げて明るい方に向いて歩いているとあまり気づかないけれど、真っ暗な南向きに歩くのは、確かに少し不安感があった。
すぐ横に誰かがいてくれるっていいな。
今は素直にそう思える。
「送ってくれてありがとう」
「本当に近くだな。さっき通った道か」
「ええ、そうなの」
「そうか。毎日のようにここを通ってるが、こう見ると暗いな」
「そうね」
「真面目な話、この辺りはしばらく気をつけた方がいい。いつもは蒼汰が送ってくれるのか?」
「まあ『RUDE BAR』に行った時に一緒に居れば送ってくれてるかな。でも仕事が終わってから用がある時は、普通にこのくらいの時間に帰って来ることもあるしねぇ…」
「警察の話だと、通報時間はバラバラらしい。夜とも限らないそうだが…。でもまあ、夜はなおさら警戒した方が良さそうだな」
「そうね。もう一本西の桜花大通りを通って帰ったとしても、結局このマンション前は少し暗いのよね」
「そうだな。……ん?」
零が、絵梨香の肩越しの後方に視線を向けた。
「え? なに?」
「いや……人影が見えたような…」
「やだ! 怖いこと言わないでよ! わざと言ってる?!」
「そんなわけないだろ。とにかく入れ」
「わかったわ」
絵梨香がエントランスの自動ドアを開けると、零は「じゃあ俺はこれで」と言った。
「ありがとう。おやすみなさい」
そう言いつつ、マンションからもう一度、ちょこっと顔を出して零の後ろ姿を見た。
彼はしばらく辺りを見廻すと、すっと向きを変えて、南にスタスタと、先ほどとは比べ物にならないぐらいのハイペースで歩いて行った。
私と歩調を合わせてくれてたのね。
そう思いながらエントランスに入り、郵便物を見ていた。
何かがさっと通ったような気がして、後ろを振り向く。
誰もいない。
もう、やだなぁ…
あんなこと言うから!
ちょっとナーバスになってるのかな?
私…。
そう思いながら、オートロックにキーを押し当てて、ドアを開けて中に入った。
第4話 『彼との距離』ー終ー
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