第149話 『深夜のCall』
「だ……大丈夫……由夏ちゃん。あ……私のバッグから取り出して欲しいものが……」
由夏がカバンを持って走り寄ると、絵梨香は小さく畳まれたペーパーバッグを取り出した。
「あんた! いつもこんなもの持ち歩いてるの?! まさか何度も……」
絵梨香は広げたそれを口許に当てながら、震えを押さえるように身体を縮めた。
「絵梨香!」
「由夏ちゃん……大丈夫、過呼吸で死ぬことはないって……彼も言ってた」
「でも、そんなに苦しんで!」
「私にとっては……同じこと……」
「え? 同じってどういう?!」
絵梨香が少し身体を持ち上げた。
「ほらね……もう大丈夫……」
顔を上げた絵梨香の頬は血の気がなく、生気のない瞳には憂いが満ちていた。
「頻繁にこんなことが?」
絵梨香は首を振る。
「いつもは気を張っているから、滅多にない」
「蒼汰は知ってるの?」
絵梨香は今度は
「いいえ。蒼汰の前では」
そう言って立ち上がろうとした絵梨香がふらつく。
「絵梨香!」
「由夏ちゃん、驚かせてごめんね。ちょっと感情的になったから発作が出ただけで……ホントに滅多にないから、心配しないで」
「でもあんなに苦しんで……」
「由夏ちゃん、だからね……私、もう思い出しちゃダメなの。毎日を平穏に過ごす努力をしなきゃ……薬を飲んで寝るね。すぐに眠れると思う。おやすみ」
そう言って絵梨香は、ふらつく足取りで自室に向かった。
由夏はその場で茫然としながら、絵梨香の華奢な後ろ姿を見つめた。
見上げた時計の針は深夜一時を指している。
由夏はおもむろにスマートフォンを耳に当てると、大きく呼吸を整えながら、繰り返されるコールを聞いていた。
とてつもなく長く感じられたそれが途切れたとき、もう一度自分を鎮静させ、上ずりそうな声を押さえる。
「もしもし……」
「……はい」
その緊張感のある返答に、由夏は自分を落ち着かせ、声を作って、努めていつもの自分で切り出す。
「……良かった、出てくれて。そっちはランチタイムよね。お邪魔して悪いんだけど?」
「それは構いませんが、なにか……あったんですか?」
その
「もしもし、由夏さん?」
「………ねぇ、どうしてもあなたの助けが必要なの」
「それは……」
口を開こうとすると、絵梨香が倒れた時の光景がフラッシュバックとして襲ってくる。
その恐怖に、由夏は座り込んだ。
「由夏さん、今
電話の向こうにも緊張感が走った。
「絵梨香が……」
「発作……ですか」
由夏は訴えるように、心のままぶちまけた。
「わかってる! 過呼吸じゃ死なないって聞いてたし、落ち着いたら心配はないって、天海先生も言ってたわ。でもね、あんなに苦しんで……もう……どうなることかって……死んじゃうんじゃないかって……思って」
気が付けば頬が幾筋もの涙で濡れていた。
「由夏さん、今は……そこに居ないのなら、落ち着いていると?」
「確かに……すぐに治まりはしたけど……」
「眠っているんですね?」
「ええ。天海病院で処方されてる安定剤を自分で飲んで、さっきベッドへ」
「そうですか……もし、また発作が起きたら、その時の対処法としては」
「零くん!」
由夏は零の言葉を遮った。
「そんなこと言ってるんじゃないの! もう発作そのものを起こさせたくないのよ! どういう意味だかわかるわよね! お願いよ! 絵梨香のもとへ帰って来てやって」
零は電話の向こうで言葉を失っていた。
「零くん、それしか絵梨香を救う方法はないの。どんな治療を受けたって、絵梨香は元気にはならないわ。あの子が望んでいるのは、あなたとの未来だけだから」
「俺には……そんな資格はありません。彼女には蒼汰が」
「バカなこと言わないで! 誰かが代わりになれるほど人の気持ちは簡単なものじゃないでしょ! 絵梨香にとって蒼汰は確かに唯一無二の大切な存在よ、でもそれは決してあなたの代わりを埋める役じゃない。だからあなたがまるで身を引くような強引な
由夏はスマートフォンを投げ出して、わあっと突っ伏して泣いた。
感情が散り散りになって、もうどこにどう持っていっていいかも解らなくなった。
息を整えながらそっとスマートフォンに手を伸ばしてまた耳に当てる。
「……由夏さん」
「……ごめんなさい。踏み込みすぎよね。私らしくないって思ったでしょ。私もよ。でも、あんな絵梨香を見ていたら……私だって……」
由夏は天井を仰ぎながら涙を
「ねぇ、そんな絵梨香を毎日そばで見ている蒼汰の気持ちも考えてみて。あなたが想像しているのとは全く違うはずよ。蒼汰ね、ここで絵梨香と共同生活してるフリをして、実はこのマンションには泊まってないのよ」
「え……」
「絵梨香が薬を飲んで寝入ったのを確認したら、毎晩深夜に
「蒼汰が……」
「蒼汰こそ、今の私のような行き場のない思いを抱えて、それをひた隠しにしながら毎日明るく努めてきたんだから、相当キツかったと思うわ。だから零くん……」
「すみません……由夏さん」
「謝られたって! 謝るくらいなら……」
「そうですよね。でも……今は戻ることは出来ません」
「零くん……あなた、空港で会ったとき言ってたじゃない、絵梨香のことを……」
「由夏さん! それ以上は……」
いつになく声を強める零の様子に、由夏はハッとする。
零の苦悩に触れたような気がした。
「……零くん、今日は切るわ。ごめんなさい、私、一方的だったわね。あなたの気持ちについてはまだ……理解できていないようだから……悪いと思ってる」
「いいえ」
「でも、諦めない。本当にごめんなさい、私は絵梨香が大事なの。どうしてもあの子に幸せになってもらいたいのよ。運命で結ばれているあなたとね」
零はなにも答えず、その後ろには遥かアメリカの地の昼下がりの雑踏が、ただただ流れていた。
「あなたにとっても、そうであることを心から祈ってるわ」
そう言って由夏は静かに通話を終えた。
しばらくその場で突っ伏して、行き場のない思いを処理しきれずひたすら泣いていた由夏の傍らで、スマートフォンが振動しはじめた。
ずいぶん時間が経過していたことに驚きながら、零が思い直してくれたのかもしれないと、慌ててそれを手に取ると、画面には別の名前が表示されていた。
「……もしもし、波瑠くん?」
優しい溜め息と共に、温かい声が流れてきた。
「由夏さん、大丈夫? 驚いたんだね」
由夏は涙を拭いながら、ソファーに座り直した。
「……零くんが?」
「ああ、ヤツが連絡してきた」
「そう……なんだ」
「由夏さんの心配をしていたよ。僕に電話してきたのなんて、日本を発つときだけだったのにさ。こんなに簡単に連絡がつくんだなって、少しは零を身近に感じられたよ」
由夏は
「でもね、絵梨香にとって零くんは、もう幻覚に思えるほど遠いのよ。だから……」
「由夏さん」
波瑠は更に優しい声で言った。
「絵梨香ちゃんは薬を飲んで眠ったんだってね? こっちも蒼汰が眠ったところだ。よかったら、出てこない?」
「え?」
由夏のマンションから川沿いに北上し、信号を渡ったコンビニ前で待ち合わせた。
ほとんど車通りがない信号待ちをしていると、コンビニの前にレジ袋を片手に手を振っている人影が見えた。
川のせせらぎを聞きながら、橋のたもとに立って、二人して缶ビールをあけた。
「ここって藤田
「そう! これほどに『RUDE BAR』が近いのに、店に入ってこないでコソコソと、こんな所で立ち飲みとはね。健斗さんも結構秘密主義だから」
「そうじゃなくて……健斗くんはあなたに気を
「ち、ちょっと! こんな時にさらっと……」
「あははは」
由夏の笑い声にほっとする。
波瑠はふうっと息をついて由夏の肩に手をかけた。
「もう大丈夫?」
由夏も一息ついて頷いた。
「ええ。でも、零くんの前で取り乱しちゃった……波瑠くんにまで心配かけちゃって」
「またそんな水くさいことを言う」
「あ……ごめんなさい」
「謝るのもナシ」
「あ、うん。ありがとう」
由夏は川の水面に映る月を見つめながら言った。
「波瑠くんは絵梨香の発作のこと、知ってたんだよね?」
「ああ。由夏さんがアメリカに居るときに少し話したことはあったよね。でも離れてる由夏さんに心配かけたくないって、絵梨香ちゃんに言われてたのもあったから……ごめん。驚いたよね?」
「ええ……あんなに酷い症状が日常的に起こるなんて……血の気が引いたわ。それにそんな状況を
「そうだな。なんとか力になってやりたいっていつも思ってるけど、僕たちがしてやれることなんて、結局はただ見守ることだけかもしれないって思うと、ジレンマを感じることが多くなった」
「あの子達が幸せな顔をして笑うのを、ただ見ていたいだけなのにね」
波瑠が改めて由夏の方を向いた。
「なんかさ、さっきから僕らは、まるで子供の心配をするお父さんとお母さんみたいな会話してない?」
「え?」
すっとんきょうな声を出した由夏がクスッと笑った。
「ホントだ! イヤねぇ。私、二十代の娘と息子がいる年齢じゃないんですけど!」
「でも風格は充分にあるんじゃない?」
由夏が頬を膨らませて抗議する。
「ひっどーい! 嫁入り前のうら若きアラサー女子なのに!?」
「あははは」
波瑠は豪快に笑いながら、橋にもたれて天を仰いだ。
「いいんだよ。僕たちはこれからも、親のように彼らを見守ろう。そして一緒に考えよう。僕は由夏さんとだったら、何でも乗り越えられるような気がするんだ」
「私も」
波瑠がサッと由夏の肩を抱き寄せた。
由夏が顔を上げて二人が見つめ合った瞬間、
「あ……」
由夏がポケットを探り、スマートフォンを取り出す。
「あ……天海先生から……メールだから返信だけしとくわね」
そう言ってスマートフォンを操作する由夏の横顔から少し離れて、波瑠は小さく溜め息をつく。
返信を打ち終わった由夏が、橋にもたれ掛かった波瑠に近付いて言った。
「天海先生、やっぱりさっきは夜勤を抜け出して『ルミエール・ラ・コート』に来てくれたんだわ。こんな時間に病院に居るって」
「へぇ……それで、零から発作のことを聞いたって?」
「ええ。先生も零くんから連絡があったことに驚いてるわ。絵梨香の発作についても、近日中にカウンセリングをしましょうって。私も同席することにした」
「それがいいね。それで……天海先生は他にはなんて?」
「え? 別に」
「ホントに?」
「どうして? あ、こんな時間だから返信は必要ないって書いてあったけど?」
その悪びれるそぶりもない由夏に、波瑠は再び大きな溜め息と共に、川を背に座り込んだ。
「え?! どうしたの、波瑠くん?」
「いや……」
波瑠は首を振りながら立ち上がった。
「そろそろ帰らなきゃ。由夏さんも帰国したばかりで疲れてるはずだから。さぁ、送るよ」
「うん……」
波瑠にエスコートされながら『カサブランカ・レジデンス』に着いた由夏は屈託なく手を振る。
「ありがとう、波瑠くん。おやすみなさい」
「おやすみ。ゆっくり休んで。何かあったらいつでも連絡して」
その自分がかける言葉が、レストランで天海院長がいっていた言葉とそっくりそのままだったことに、吹き出す。
「はぁ……結局、取り巻きはサポートする側に回り込むしかないんだな」
波瑠は、川のせせらぎを聞きながら、蒼汰が眠る自宅マンションに向かってゆっくりと北上していった。
道路から離れると、川のせせらぎがよりいっそう際立つ。
ひょいと覗いた水面には、もう月は映っておらず、白んだ空の色が波打っていた。
第149話『深夜のCall』- 終 -
事件の謎~その先にあるもの 《傍らに奏でるラブストーリー》 彩川カオルコ @kaoruko25
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