第148話 『堰を切る思い』

RUDEルード BARバー』の優しいドアチャイムの音色に見送られて店の外に出ると、スーッと心地よい夜の風が吹いて頬を撫でてゆく。

まだ夏が始まる前に、ここで同じように次の季節の到来を感じた記憶が甦る。


あの時はまだ……


まだ彼の存在は、自分の心をめるには足らなかった。

この場所から自宅までのたった数分の時間、口数も少なくぎこちない会話の中に彼の本質を探していたあの日……

グッと見上げた彼の顔の位置にその姿はなく、今は静かな月が優しい面持おももちを見せている。


あの時はまだ……

まだ、なにも始まっていなかった。

予感すら、なかった。

こんなにも彼が……

自分の心を揺らす存在になるなんて。

零……

あなたは今、どこに……




「どうしたの絵梨香?」


由夏が月を遮るようにフレームインしてきた。


「ううん。なんでもない」


「帰ろう! 私たちの家へ!」

そう言って由夏は絵梨香の首に腕を絡める。

「絵梨香、会いたかった!」


絵梨香はその手を払うようにパチンと打った。

「なによ今さら、ずっとほったらかしにしてきたくせに!」


由夏がおどけて見せる。

「なに? もしかしてねてたの?! もう、この子ったら!」


由夏は更にその腕に力を込めて、グッと頬を寄せた。


「ち、ちょっと! 由夏ちゃん酔ってるでしょう!」


「このくらいで酔うわけないでしょう? 可愛いこと言ってくれちゃって!」


「ほら、もうマンションに着いちゃうから! 離してよ」


「ダメ! 離さない!」


「やっぱり酔ってるんじゃない……」


二人は笑いながらエレベータに乗り込んだ。

玄関で靴も揃えないまま上がり込んだ由夏は、リビングに向かってドカッとソファーに腰を下ろした。

目を輝かせながら辺りを見回し、グーンと伸びをする。


「ううーっ、久々の我が家! 絵梨香、お水ちょうだい」


「もう! 由夏ちゃん! お父さんみたいになってるよ」


由夏は腕を下ろしながら自嘲的に笑う。


「そこ! "お母さん" じゃなくて "お父さん" なわけ? やっぱりあんたにとってあたしはそっちのキャラなんだ?」


「仕方ないでしょ。あるじの風格、ハンパないんだし」


「それって遠回しにオヤジくさいって言ってるわけ?!」


「いや、遠回しでもないけど……」


「なにーっ!」


由夏は受け取った水のグラスを一気にあおると、絵梨香の腕をつかんでソファーに引っ張り込んだ。


「あははは。久しぶり、この空間」


「もう! ホントだよ。由夏ちゃん」


「でもよかった。絵梨香、元気そうだし、何より仕事に対する姿勢も変わったように見えたわ。成長したのね」


絵梨香は照れくさそうに下を向いた。


「でも! 無理は禁物だからね! あ! それよりさ、ずっとお酒飲んでないんじゃなかった?! 絵梨香、今日は普通に飲んでたけど、大丈夫なの? まさかミュゼで飲んだシャンパンがまだ残ってるとか?!」


由夏の勢いに圧倒されながらも、絵梨香は微笑んで答える。

「ううん、大丈夫。心配しすぎ」


「だよね? いくらなんでもあれくらいで酔ったりしないか?」


絵梨香が肩をすくめて由夏を覗き込む。

「由夏ちゃんはあんなに飲んでるのに酔ってないわけ?」


「そういうわけでもないわよ。今日は特に気分がいいけど、一応お酒の力も含まれてるだろうしね」


「そうかな? 久しぶりに "誰かさん" に会えたからだったりして?!」


絵梨香がにっこりとそう言うと、由夏は上目遣いにギロッと睨み付けた。


「あんたまで蒼汰みたいなこと言わないの!」


絵梨香は笑いながらも、由夏が天海と波瑠のどちらの男性を想定して答えたのだろうと思ったりする。


「それにね、あたしはあんたとあそこRudeBarで飲めた事が、ホントに嬉しかったんだから!」


由夏は改めて絵梨香に向き合うと、両手でその手をギュッと握った。


「うん。私も……」


「ずっとそばに付いててあげたかったのに……ホントにゴメン」


「いいよ。さっき『ルミエール・ラ・コート』で由夏ちゃんが話してたこと、聞いて私もワクワクした」


「うん。ファビュラスに新部門を作るためにここしばらく、手を尽くしてたからね」


「出版部門か……ファッション誌を刊行するのね」


「そう。前々からって言うか……ファビュラスを立ち上げたときから考えてた事だから」


「そうだったんだ?」


「うん、だってファッションメインのイベント会社よ、そこにファッション誌が付随してもおかしくないもの」


「確かに」


「そして有望なコラムニストも居るわけだし?」


「それって……」


「あんたよ、絵梨香!」


「私?!」


「そう! コラムニストのみならず、立派な雑誌編集者に成長してもらわなきゃ」


絵梨香は驚きのあまりポカンとしたまま不動になっていた。


「由夏ちゃん……そんなことまで考えてくれてたんだ」


「当たり前でしょ。私は先見の明を持つと言われるファビュラスの相澤由夏よ! 原石にはいち早く反応するの。そしてそれを輝かせるステージも用意できるわ」


「さすがファビュラススリー……」


「感心してる場合? あんたも他人事ひとごとみたいにボケッとしてないで、積極的に行動してもらわないと!」


「もちろん……なんでもやるけど、私に出来るかな」


「出来るわよ! それも考慮して蒼汰に任せたんだから。あたしが居るよりずっと絵梨香を成長させてくれるはずって、そう思ってはいたけど、それ以上の成果を出してくるとは……編集者としては、蒼汰も気の置けない存在となったわ」


微笑む絵梨香の肩に、由夏はまた腕を回して、静かに言った。


「それにはね、絵梨香、クリアしなきゃならない問題があるわ」


絵梨香は不思議な面持ちで由夏をじっと見つめた。

「なぁに、由夏ちゃん」


「あ……今夜はもう薬は服用しないわよね? ならもう少し飲みましょう。心置きなく吐露できるように。もちろん、ドクターの許可の範囲内でだけど」


そう言うと由夏は絵梨香を座らせたまま冷蔵庫に立ち、缶ビールとグラスを二つ取って戻って来た。

「心穏やかに。話してみて、あんたの心の中を。希望の光も、よどんだ闇も、この際全部聞かせてもらう」


由夏は絵梨香のグラスに控えめの泡をたてて、残りは全部自分のグラスに流し込んだ。

緊張気味の面持ちの絵梨香に、由夏は軽くグラスをぶつけて、微笑むと、少し遠い目をしながら、上品にグラスを傾けた。


「私が部活に明け暮れてたとき、小学生のあんたは、よく静代おばあちゃんの家に泊まりに行ってたよね?」


絵梨香は少し困惑した表情で、口をつけただけのグラスをテーブルに置いた。

「うん」


「でさ、西園寺のおじいちゃんと遊んでるって話、よく聞いてたんだけど、今思えば、小学生のあんたが、おじいちゃんの家にお兄ちゃんがいるって、確かに話してたなって。この前出張先でさ、急に思い出したのよ。それが零くんってことなのよね?」


突然由夏からその名前を聞いて絵梨香は瞬時に顔の色をなくした。

目線を落としながら、不自然に頷く。

由夏は絵梨香のそんな態度も気にしない様子で話を進めた。


「不思議な縁よね。お互い全く気づかないまま、再会してたなんて。ほら、最初はさ、悲惨だったって言ってたじゃない? あんたがスカウトしたとき。絵梨香さ、「どうしてあんな冷徹な人が蒼汰の親友なのよ!」って怒ってさぁ」


笑いながら話す由夏に視線を向けず、絵梨香は黙ったままだった。


「西園寺家の生前葬で会っても、まだ気付かなかったんでしょ? じゃあ、いつ彼がお兄ちゃんだって気付い……」


「由夏ちゃん……」

顔をあげて、訴えるような表情をした絵梨香が言葉を遮る。

由夏はまた絵梨香の真正面に向き直して、その組んだ両手の上に手を添えた。


「さぁ話して。今、絵梨香の顔を曇らせるそのわけを」


絵梨香は目を見開いて由夏の顔をしばらく見つめたあと、また視線を落として俯いた。


「ダメなの、由夏ちゃん……私……話せない。話したら……」


由夏は両手で絵梨香の頬を包んだ。


「彼に会いたいんでしょ? 会いたくてたまらないのよね? それならどうして我慢してるの! 絵梨香らしくないじゃない。零くんに、会いたいなら……」


その名前を発したとたん、絵梨香の両目からどくどくと涙が溢れた。


「絵梨香……?」


「ダメなの由夏ちゃん。彼の……その名前を口にしたら、私はいつもの私でいられなくなって……きっとまともに仕事もできなくなるわ。蒼汰とも普通に話せなくなる。私が私でなくなっちゃう……ただただ悲しくて……そんな感情に支配されちゃうの。怖くて怖くて、たまらない……」


由夏は絵梨香を抱き締めた。


「だからって、ずっと黙ってきたの? 怖いんじゃない、ただただいとしい、それだけのことよね? 彼のことそんなに愛してるんだったら、どうして彼に会わなかったの」


「だって彼は……私じゃダメなの」


「どういうことよ!」


「言われたの。"親友を裏切れない" って。そして去っていった。まるで最初から存在しなかったように、私の前から消えてしまった。蒼汰にも聞けなかったわ。蒼汰の困った表情が見たくなくて……」


「絵梨香、さっきからあんたが言ってることは、何一つ核心に触れてないわ。一番大切なことが抜けてる。何よりも重要なのは、絵梨香の気持ちでしょ」


絵梨香は激しく首を横に振ってうつむく。

徐々に息づかいが荒くなってくる絵梨香の肩を、由夏は押さえて前を向かせた。


「絵梨香!」


絵梨香は大粒の涙を流しながら、訴えるように由夏を見上げた。


「そうよ、好きなの。どうしようもなく。少し気を抜いたら、すぐに心のあらゆるところに彼が現れてしまう……一緒に見た日常の景色にも、小さい時のあの西園寺家でのことも、大人になって再会してからのことも、そして……気持ちが通じあったあの日々の中でのことも。全部……今だって目を閉じればここに現れるわ。見るもの感じるものの中に、必ず零のシルエットがあって……それを見ないように毎日必死で……」


「絵梨香……そこまで零くんのことを……」


「でもね、見えるものはすべて影なの。手を伸ばしても掴めない、ただの幻覚。そこに映る零はもう、私には微笑んでくれない。だから私は……うっ!」


そう言いながら絵梨香が眉根をよせて由夏に倒れかかってきた。


「絵梨香、どうしたの?! 絵梨香!」


絵梨香は苦しそうに首もとを押さえながら、さらに荒い呼吸を繰り返していた。


「絵梨香! これ……過呼吸じゃ?!」


「だ……大丈夫……慌てないで、由夏ちゃん。あ……私のバッグから取り出して欲しいものが……」


由夏がカバンを持って走り寄ると、絵梨香は小さく畳まれたペーパーバッグを取り出した。


「あんた、いつもこんなもの持ち歩いてるの?! まさか何度も……」


絵梨香は広げたそれを口許に当てながら、震えを押さえるように身体を縮めた。


「絵梨香!!」


「由夏ちゃん……大丈夫、過呼吸で死ぬことはないって……彼も言ってた」


「でも、そんなに苦しんで……」


「私にとっては……同じこと……」


「え? 同じってどういう……」


絵梨香が少し身体を持ち上げた。

「ほらね……もう大丈夫……」


顔を上げた絵梨香の頬は血の気がなく、生気のない瞳には憂いが満ちていた。


「頻繁にこんなことが?」


絵梨香は首を振る。

「いつもは気を張っているから、滅多にない」


「蒼汰は知ってるの?」


絵梨香は今度は俯いて首を振る。

「いいえ。蒼汰の前では」


「そう……」


絵梨香は立ち上がろうとする。


「絵梨香」


「由夏ちゃん、驚かせてごめんね。ちょっと感情的になったから発作が出ただけで……ホントに滅多にないから、心配しないで」


「でもあんなに苦しんで……」


「由夏ちゃん、だからね……思い出しちゃダメなの。毎日を平穏に過ごす努力をしなきゃ……」


「でも絵梨香……こんなこと、いつまでも」


「薬を飲んで寝るね。すぐに眠れると思う。おやすみ」

そう言って絵梨香は、自室に向かった。


由夏はその場で茫然としながら、絵梨香の華奢な後ろ姿を見つめた。

時計を見上げる。

深夜一時を過ぎたところだった。

由夏はおもむろにスマートフォンを耳に当てる。


「もしもし。良かった、出てくれて。ランチタイムよね。お邪魔して悪いんだけど、どうしてもあなたの助けが必要なの」


第148話『せきを切る思い』- 終 -

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