第147話 『Get back in to society』

絵梨香が勤める『ファビュラス』は、今や日本屈指のイベント会社としてその名をせている。

母体は大手企業『東雲しののめコーポレーション』で、ファビュラスはその巨大な自社ビルの七階に位置していた。


絵梨香の久しぶりの出勤に際して一日中落ち着かなかった蒼汰は、早々に仕事にけりをつけ、出版社を出て駅の方向へ足を向けた。

朝、彼女と電車から降り立った数時間前とは真逆の方向から射す夕日が、そびえ立つガラス張りの自社ビルに反射している。

蒼汰は、直視できないほど眩しいその赤い光線に向かって歩いていった。

その光はたもとに到着するところで遮られ、ようやく自分が正気に戻ったような気持ちになる。

それはまるで蒼汰にとっての絵梨香の存在そのもののように思えた。

果てしなく高い吹き抜けのエントランスホールに入ると、外の暑さが嘘のように、瞬時にひんやりとした空気に身体が包まれる。

待ち合わせ場所にはすでに先客がいた。


「おお蒼汰。お疲れ」


いつも小洒落たカジュアルな印象の波瑠ハルが、今日はなんだかかしこまったフォーマルな服装に身を包み、そこに立っていた。


「おっ! 波瑠さん、さすがに決めてきてんじゃん! 由夏姉ちゃんに会うのはいつぶりだ?」


ニヤニヤした表情で肩をぶつけてくる蒼汰に、波瑠は溜め息をつきながら面倒くさそうに笑った。


「お前……なんだその顔は。今日は絵梨香ちゃんの快気祝いだろうが」


蒼汰も苦笑いする。

「まあ、そりゃそうだけどさ」


蒼汰はふと、由夏と電話で話した時によぎった疑問を波瑠に尋ねようと顔を上げた。


「そういや波瑠さん、由夏姉ちゃんの帰国をいつ知ったんだ? 昨夜オレが波瑠さんのマンション行ったときもそんな話、聞かなかっ……」

「蒼汰!」

そのといは、懐かしい声によってさえぎられた。


「あ……由夏姉ちゃん! 帰国するならそう言ってくれないと……びっくりするじゃん」


「はぁ? 何であんたにびっくりされなきゃなんないのよ。いつ帰ってこようが私の勝手でしょ! あ、もしかしてなんかやましいことでもあるとか?」


「ち、違うよ! 別に……」


由夏の隣には、にこやかな表情の絵梨香がいる。


「まあいいわ。今日の絵梨香の仕事ぶりをみたら、あんたがどれほどこの子を指導してくれてたのか分かったから。蒼汰にそんな才能があったとはね」


蒼汰は眉を上げる。

「わ、珍しく褒められた! 上機嫌じゃん! ま、ご機嫌な理由は他にもありそうだけど……」


そう言って波瑠の方をチラッと見た蒼汰を、由夏はバシッと叩いた。


「痛って!」


「相変わらず口が減らないわね! さぁ! お腹空いたわ。行きましょう」


そう言ってさりげなく波瑠の肩に触れた由夏のやわらかい表情を捕らえた蒼汰と絵梨香が、こっそりと目配せをした。

波瑠のプジョーに乗り込んで到着した、高級イタリアンレストラン『ルミエール・ラ・コート』

車を降りて白亜の門をくぐり抜け、緑あふれる小路こみちから店内エントランスに入ると、オーナーのいぬいがにこやかに彼らを出迎え、ガーデンテラスがひときわよく見えるテーブルに案内してくれた。

まるでブライダルフェアのごとく豪華にセッティングされたそのテーブルに、五つ目の席を見つけて、四人はそこに目をやる。


乾が皆の顔を見回しながら言った。

「あ……実は、たまたま話していた天海に、今日皆さんが来られるという話をしていたら……ヤツも少しだけ参加したいって言ったんで……」


由夏が補足を入れる。

「さっき私も電話をいただいたのよ。天海先生、絵梨香のことも気にしてくださってたし、是非ご一緒しましょうって言ったんだけど……」


思わず波瑠の顔を見上げる蒼汰の視線を気にも留めず、波瑠が乾に向かって言った。


「それは良かったです。天海先生も最近はお忙しいのか、なかなかうちRUDEの店BARにもお越しいただけなかったんで、僕もお話したいと思ってたんですよ。絵梨香ちゃんも、今後の事で何か不安に思うことがあったら相談したらいいんじゃないかな?」


「ええ、そうね」


運ばれてきた食事を楽しみながら、由夏は波瑠に今日の絵梨香の仕事ぶりと、それを見て改めて蒼汰の編集者としての技量を認めたと話した。

自分のことのように喜ぶ波瑠の隣で、蒼汰は恥ずかしそうに照れ笑いする。

そこからは由夏が構想する今後のファビュラスの発展形の話しが始まり、絵梨香は目を輝かせながらそれを熱心に聞き入っていた。


それぞれが未来に向かっていると実感しながら、和やかな時間を過ごした四人が最後のデザートに手をつけたところで、天海宗一郎院長がやってきた。

それぞれに気の利いた挨拶を済ませた天海は席に着くと、ワンプレートメニューの食事をとりながら、カンファレンスのごとく絵梨香から状況を聞き出す。


「まだ投薬を続けてるから、なるべく飲酒は控えた方がいいんだけど……今夜は保護者が勢揃いだからちょっとだけ」


そう言いながらディレクトールに合図を送ると、ソムリエがシャンパンを片手に席を回った。

天海はそっと自分のグラスの上に手をかざし、ソムリエは頷いて席をあとにした。


「ゆっくり楽しみたいんだけど、僕はこれから病院に戻らなきゃならないんでね。慌ただしくて申し訳ない」


天海は立ちあがる。

「では皆さん、ごゆっくり。絵梨香ちゃん、次の受診は僕も同席させてもらうね。仕事、頑張って! でも無理しちゃだめだよ」


にこやかにそう言い残して、天海は立ち去った。

その背中に視線を送ったまま、由夏がつぶやくように言った。


「本当はすごく忙しくて、時間なんてないんでしょう。なのにわざわざ来てくれて……無理してるのは、きっと天海先生の方ね」


振り返った由夏は、皆の視線を集めていることに気付いて少し驚いたような表情を見せながらも、シャンパングラスに手を伸ばし、目の高さまで持ち上げて微笑んだ。

「さぁ、もう一度乾杯しましょう!」


店を出て車に乗り込んだ由夏は、助手席から後部座席に向かって言った。


「今から『RUDE BAR』に行くわ。こちらの"運転手さん"はあの美味しいシャンパンを飲めなかったわけだし? あんたたちも行くでしょ?」


絵梨香と蒼汰は頷いた。


「波瑠くん、あなたのお店で一番美味しいお酒を私にご馳走させてくれる?」


由夏のその言葉がなんだかなまめかしくて、後部座席の二人は目を合わせて息を飲んだ。


「ふふ。由夏さん、お気遣いいただいて。絵梨香ちゃんは疲れてないか?」


「ええ、私は大丈夫」


絵梨香の隣から蒼汰がのそっと顔を出して、白々しく前席の二人を交互に見ながら言った。


「あ……お邪魔じゃなかったら……な、絵梨香?」


「蒼汰! なにバカなこと言ってんの!」


またバシッと鉄拳を食らう蒼汰の横で、絵梨香がカラカラと笑う。

そして頬に笑みをたたえたまま言った。


「実はね……久しぶりに行きたいって、言おうと思ってたの」


その言葉に、皆の顔がふうっと和やかになった。


絵梨香が『RUDE BAR』に最後に足を踏み入れたのは、殺人犯として逮捕されている小田切おだぎり佳乃よしのに拉致される数時間前のことだった。

ドアの前に立ったとたん、当時の心境が蘇って思わず息を呑む。

そんな絵梨香の気持ちを悟ってか、笑顔でスッと視界に入ってきた蒼汰がドアを開け、そっと絵梨香の肩に触れながらエスコートするように店内に促した。

そして朝の出勤時もそうだったように、大きな声で他愛もないことを喋り続ける。

皆の笑顔を見渡しながら、絵梨香は事件よりも遥か前、ここに蒼汰と夜な夜な通っていた日々のことを思い出していた。

またあの頃のように平穏な日々が戻ってくると、そう実感し、皆のぬくもりを心に感じた。


「さ、乾杯!」


「由夏姉ちゃん、何度目だよ」


由夏は豪快にグラスを傾ける。


「由夏ちゃん、海外出張行ってる間にまたお酒、強くなってない?」

絵梨香は、由夏が高く持ち上げるグラスの底を見る度に、目を丸くした。


「ふふ。そうかも。でもやっぱりここで飲むお酒が一番よね?」


由夏はガバッと立ち上がって絵梨香の肩に手を置いた。


「今夜はカサブランカウチのレジデンスマンションに泊まろうかなぁ?」


「え? そのつもりじゃなかったの?」


「ええ。なんせ忙しい身だからね。仕事も立て込んでるし、フットワークを考えたら空港の近くが都合がいいから、長期滞在のつもりでホテルに部屋は取ってあるのよ」


「そんな! 近いんだしウチに帰ろうよ!」

絵梨香が子供のような表情で由夏を見上げる。


「あはは! なによその顔! 絵梨香、あんた子供の時と全然変わんないじゃない!」


プイとねる絵梨香の肩に腕を絡ませて、由夏が波瑠を見上げる。


「じゃあ今夜はウチに泊まるわ。波瑠くん、悪いんだけど、蒼汰を泊めてもらえないかな?」


蒼汰は驚いて由夏の方を向く。

「えっ、あ……」

そして波瑠に目を合わせて表情をつくろった。

「えっと、波瑠さんが迷惑じゃなかったら……」


波瑠は眉を上げて軽くうなづく。

「いいよ蒼汰。泊まっていけよ」


「ありがとうね。波瑠くん」

由夏はそう言いながら、波瑠を見据えるように暫く視線を止めた。


それからも由夏は平然としながらもどんどん陽気にグラスを重ねていく。


「うわ……由夏姉ちゃん、マジで底無しになってんじゃん!」


「なに言ってんの! アンタが軟弱過ぎるのよ」


その飲みっぷりにたじろぎながら、半ばカウンターに突っ伏しそうになっている蒼汰の頭をはたいて、由夏が立ち上がった。


「じゃあ絵梨香、帰ろっか。波瑠くん、悪いんだけど蒼汰のこと、よろしくお願いします」


「ええ。おやすみなさい」


スッときびすを返す由夏に合わせて、慌てて立ち上がった絵梨香に波瑠は微笑みかける。


「絵梨香ちゃんも無理しないようにね。しっかり休んで」


「波瑠さん、ありがとう。おやすみなさい」


由夏についていこうとバタバタと階段に足を掛けながらも、絵梨香は振り向いて声を上げた。


「今夜……ここに来れて、良かった……本当にありがとう」


波瑠は何度も頷いて手を振った。


ドアがバタンと閉まったと同時に、蒼汰がすくっと身を起こした。

ベルが余韻を響かせているドアを静かに見上げる。


「なんだ? 酔いつぶれてたんじゃなかったのか?」


蒼汰は波瑠が差し出してくれたチェイサーミネラルウォーターを一気に飲み干した。


「そりゃ酔いも覚めるだろ。絵梨香のあんな言葉……聞いたらさ」


「そうだな」


波瑠は空になった蒼汰のグラスに、またどくどくと水を注ぐ。


「良かったな、蒼汰。元気な絵梨香ちゃんを見れば、お前も心が軽くなるだろ?」


「まぁ、絵梨香がホントに無理してないならな」


「すっかりうたぐり深くなったな」


「そりゃそうだろ! これまでもどれだけ心配して……なのに絵梨香は……」


波瑠は笑いながら蒼汰の肩に手を置いた。

「まるで父親だな。心配は尽きないだろうが、せめて今夜くらいは心を解放しろよ。他でもない、誰よりも頼りになる由夏さんに任せてるんだからさ、心底眠れるはずだろ?」


早々に店じまいをして、二人は少し涼しくなった川縁かわべりの風を感じながら波瑠のアパートへ向かう。

頬の火照りを癒すように星を見上げて、フラフラと歩く蒼汰を、波瑠は少し後ろから静かに眺めていた。


「波瑠さん」


「ん、なんだ?」


蒼汰は依然、空を仰いだまま話し始める。


「由夏姉ちゃんってさ、ひとところに収まらないタイプだよな。突拍子もない行動ばっかりだ。疲れない?」


「は? なんだ急に」


波瑠は蒼汰の意外な発言に、少し足を早めて足並みを揃えた。


「お前の姉さんだろ? お前が一番わかってるんじゃないのか?」


「そうだけど……」


腑に落ちない表情の蒼汰を尻目に、波瑠も星を見上げる。

蒼汰が毎朝、絵梨香が目覚める前の早い時間に自分の家からあのマンションに帰っていく事を知った由夏は、蒼汰の心の負担を目の当たりにし、そのケアが必要だと感じたのだろう。

予定を変更してあの家に帰ったのは、絵梨香の現状を把握する必要性と、蒼汰の問題も併せて、その緊急性を察知したからだろうと思った。


「きっとさ、久しぶりに絵梨香ちゃんと女子トークがしたくなったんだと思うよ。由夏さんは会社では立場のある人だから、なかなか絵梨香ちゃんにも個人的に言葉をかけてやれなかったりしたんじゃないかな?」


「あー確かに……そうかもな」


そう言いながら蒼汰は勝手知ったる足取りで波瑠のアパートに入っていく。


「さあ、お前も寝不足が続いてるから、今日ぐらいはゆっくり風呂に浸かって休んだらどうだ?」


「ありがとう波瑠さん。そうさせてもらうよ」


蒼汰は安心したように大きく息をつきながら、波瑠の部屋のドアを開けた。


第147話『Get back in to society』-

終 -



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